SNS(ネット)限界話
若者の自殺が増えているというニュースを目にしたので、少しだけ持論を残しておきたくなったので緊急的に一記事。
端的に良いたことは一つ。
「ネットが浸透して以降の社会は、個人が必要とする情報量を遥かに超えた膨大なノイズ・トラッシュ的情報を接取し過ぎている。」
とそれだけ。
若者の息苦しさ生き辛さには親だとかの育つ環境も大いにあると思う。
しかし私はそれ以上に「本来なら必要が無いし、知ったとて扱う事も出来ない、処理出来ない情報が余りにも多過ぎる」と言う点が最も厄介だと常々感じている。
先述の親(いわゆる毒親問題)だって、親自身が既に社会に蔓延する情報に振り回され、挙句その情報の操り人形になってしまっている可能性も大きいのだ。
確かに自分の問題を解決する為の情報を探すのに、ネットは最適この上ない媒体だ。
しかし欲張った知識欲や日常のモヤモヤの埋め合わせの為だけに、いつでもネットにアクセスして自分の思考よりもさらに根っこにある感情よりもさらに原初の感覚的反応を刺激し続けるような日常では、その人の心は全く休まる時間などないはずだ。
まして元々メディアの情報などは、受け手のそういった感覚をツンツン刺激する事に特化したものが多いのだ。
色々な情報を冷静に注意深く観察してみれば、そこかしこに今それを目に耳にしている人の感覚をカーッとさせる要素がふんだんに散りばめられている事に気が付くだろう。
私達は日常いつでも情報によってかなり心理操作…と言うよりも感覚操作をされてしまっているのだ。
先進国の情報社会とは、そうするようにデザインされきっているのだから。
SNS等にアクセスし情報を得る事で、相対的に自分の人生の無意味さ無価値さを痛感し、未来へと生きる事に無気力になっている・なりつつある人が一体どれほどいるのだろう。
きっと日本だけの話じゃない。世界でだって目立つ為注目される為に動画投稿で無茶をする人の話は伝え聞いたりするものだ。
世界がネット(全くの不必要な情報)によって狂乱させられてしまっている時代なのだろう。
こんな時代にあって、個を・自我を確立させて生きる事は恐らく人類史上でも類を見ないほどに困難になっているように思える。
他にあるとすれば、厳格な身分制度により最下層階級生まれの人が生まれた瞬間より死ぬまで絶望を超えた虚無感のみでただその日を虚ろにやり過ごしていた時代くらいのものだろう。
「今の日本は先進国で自由で金も物も情報も溢れている!比較になるか!」と言いたい人もいるかもしれないが、それは単に水面上の華やかさしか見ていない。
水面下では常に誰かが自分の足を引っ張っている状況、それが今の先進国の現状だろう。
とは言え…だ、解決策、そんなものがあるとは思えないのが現実。
殊に全ての人がネットの虚構から救われる、それはまず不可能な話だろう。
仮に政府が情報統制などを行いネットが全面禁止にでもなれば可能になるだろうが、その頃には全く別の庶民を絶望に陥れる社会的国家的問題が蔓延しているはずだ。
一つだけあるとするなら、やはり自分自身の内面の奥底にダイブし、本当に自分が必要としているのは一体何なのかを、自分自身との対話を繰り返しながら少しずつ探っていくしかない。
もちろんだが、そこで得た仮の解答の正しさを証明する為に、実際に行動に移す必要もある。
そう、恐ろしいほどに地味で泥臭くて、そして面倒極まる作業だ。その繰り返しだ。
でも別の言い方をすれば、自分の根源が欲求している事物を知って行動する事は、それは「その人の人生の課題」とも言えると思う。
そもそも人生とは、人間とは一体どうすれば、何を得れば幸福になれるのだろう?
金?物?陽キャと呼ばれる友達100人?それとも自分以外の誰かが無責任に言う「成功者像」や「こうあるべき人間像」の体現?
それを知る為にも、やはり先述の事柄をやるしかないのだ。
最後に究極の辛辣な言葉を残して立ち去る事とする。
「お手軽に手に入れたお手軽な方法論でお手軽に成功しても、その成功は簡単にかる~く消滅し、後にはアナタの掌に砂粒一つ残らないよ。」
そんな激・辛辣なお話でした。
…読んだ人の鬱の加速を極めてしまったかもしれない感は否めない…