お金と幸福
何て在り来たりなタイトルだろう。と思いつつこの数年で感じた事を書く。
私はボンビーだ。4年前から如実に体が不調だらけになった。
趣味の自転車で酷使している事がまずある。次に仕事も基本的に終日身体を動かす。ケアは行っているが、それでも万全とはいかない。
それよりもはるかに深刻なのが気象病と言われる症状だ。これに関してはネットに転がっている様々な情報を集め、この数年ひたすら検証を試みて来た。
そしてどうやらと言うか、やはりと言うか、根本的には自律神経の狂いが引き起こしている疑いが強い。勿論これは超絶主観解釈。
その自律神経狂いと言うか失調症の如き症状の原因は分かっている。年単位で続く睡眠不足だ。
ここ半月ほど、頸椎から脊椎にかけてのストレッチを行うようになったところ、結構改善傾向がある。気象状況的に今は最悪な時期だが、それにしては、と言うレベルで。
…で、お金の話題はドコ…?
先に書いたが、私は身体不調についてとにかく調べた。実践もした。今もしている。
これらにお金はほぼかかっていない。せいぜいマッサージアイテムや一時期試したサプリが少々。後は自炊の為の食費がそれなりにかかっているくらいなものだろう。
あとは、お金が無ければ頭と体を使うしかない。
でももしお金がそこそこあればどうだったろう。
私は元来別に努力家でも勤勉人間でもない、むしろ興味の無い事は面倒でやれないタイプだ。(実にASDっぽい)
だからお金があればお金で解決したのは間違いない。病院に足しげく通い大量の薬を処方され、それとは別にサプリもガンガン飲む。マッサージアイテムや運動器具で部屋は溢れ、書棚には(そんなもん無いけど)健康ノウハウ本がズラッと並ぶだろう。
お金は自身の内にある問題を手軽にスピーディーに解決してくれる。とても便利な存在だ。
「お金で買える命もある」
嘘じゃない。私も大昔にそうやって当時の最新医療医術によって命を繋ぎ止められたのだから。
だから私自身「清貧こそが人間の美徳美意識」とまで言うつもりは欠片も無い。
でもお金に完全に依りかかり何ならおんぶに抱っこしてもらう。これではその人の内側の存在は前に進めるのだろうか。
お金がある内はそれで良いのかもしれない。お金が生涯尽きない事が確定しているのであればその主義で問題無いと思う。
でも庶民の経済的未来予測の確実性なんてたかが知れている。ましてこんな時代だ。
であれば、たとえ身一つでもまずは自分自身が大地にしっかと立てる健康な身体能力(当然脳力も含む)こそが、まずは基礎中の基礎としてあるべき人生の要素な様に思える。
身体が健康でなければ、「いざ」の時に身体が動いてくれないのは、それはどれほどの恐怖か。
だからこそ人々は徹底的にお金を溜めようとするのだろう。「いざ」の時に動ける、そうなる為の自身の身体操作方法を知らないから。
知も体も金も、そして人も。全ては好ましい水準でありそして相互に繋がっているのが最も良いのだろう。
私がこの2年ほどで自然と口にするようになった「塩梅」(もしくは匙加減)という言葉、それは言葉以上に心がその意味合いを強く感じている。
そう至るに足る様な生き方が出来ていたのは結構嬉しい。
かつて余りにも性急でおっちょこちょいだった自分がこう成れるというは凄い事だな、と我ながら、いや「我だからこそ」強く実感出来る。
きっと幸福の一つの形なのだろう。
それもちょっとやそっとの強風では簡単に消えない様な。
※後記
色々と偉そうに書いているけど、別に身体の問題のことごとくをクリアしている訳じゃなく、むしろ問題は未だ残り続けているのが現状です。
それでも自分の人生の良い運び方のような感覚的コツを掴みつつある、その精神的に得た部分にこそ幸せの様な充実感があるのが嬉しいのですね。
当然ですが、そこまでの道程は楽ではありません。むしろ楽なんて概念、今こうやって文章に書いてみて久しぶりに思い出しました。そういう道のりです。
でも苦労と痛みに塗れた分、得られたものに対する満足心もまたひとしお…
と言う、言ってみればただそれだけの、どこにでもあるありふれた話なのですね。
しかしとは言え、苦労はまだまだ続くのですけれどもね…
それが私の性質がもたらす人生なのでしょうが無いのですね。
さて、そんな人生の「唯三」くらいの楽しみの一つ
「ンマイコーヒー」
でも飲みましょうかね……