自殺について
YouTubeを見ていてたまたまとある名言系の動画の内容に触れたので書く事にした。
なお全ては個人的経験による主観発言にしか過ぎないと、ハッキリと明言しておく。
生が苦し過ぎて、それが長期に及び慢性化し、やがてそれが極点に達する。
私の場合は
私「自分は何故今生きて呼吸をしているのだろう」
と己に問う。そして
心(沈黙)
だった。
自分の命を懸けた問いに自分が答えられなかった時、全てが終了したと悟った。だから実行した。
思考が零の状態で深夜に包丁を片手取る。その切っ先をかつて手術をした後が今も残る心臓のその部分に当てる。
感情は、何も無い。
ただ「力を籠めれば全てが終わるな」それだけだった。
どれくらいの時間そうしていたのだろう。
私は相変わらず無思考無感情のまま握っていた包丁を元の場所に置き、そして布団にもぐり、いつものように眠った。
今、私はその当時と相変わらず困難さはさほど変わらない状況で、それでもその時とはハッキリと別人としか言いようが無い人間で生きている。
今はもう全くしなくなったが、少し前までこういった機会があるとたまにその時の事を考えていた。
「なぜ死ななかったのだろう」
「生きる理由を自分に言ってあげられなかったあの時期あの時、心は確かに既に死んでいたのに」
何度考えても出てくる答えはたった一つのシンプルなものだった。
「私の意思は死を望んでも、身体がそれを拒否した、受け入れなかった」
それだけだった。
これを読んでいる人で、今この瞬間にでも心が完全に死の沼に浸り、後は溺れ行くのを待っている人がいるかもしれない。自らそうなりたいと願っているかもしれない。
しかしそれでも死んでいない。
自分が生きて零以上の素敵な感情を抱ける機会はもう無いのだと、そう確信しながら、そんな毎日を続けながら、それでも今生きている。
…だから何だという訳でも無い。
別に仰々しい素晴らしい生の大切さを名言を添えて語るつもりもない。
死を願うほどの、生の、人生への絶望は私自身も長く身を以て経験して来た。
普通に成ろうとしてどう足掻いても成れない人の苦しみはこれでも少しは分かるつもりだ。
そんな人が死を想う毎日と、生への疲れから解放されたいと願う、それは当然だと思える。し、それを想える。
それでも身体は生きている。
アナタのソレも、ワタシのコレも、生きている。生きてしまっている。
心臓は意思に関係無く勝手に動き、肺は無理矢理呼吸を止めてみたところで苦しさの余り勝手に荒い呼吸を始める。どれだけ心が強烈に死を願おうと。
生きる、とはそういう事なのだと知る。
少なくとも私はそう思えたし、今もそう思える。
今、死しか己の心を満たさないアナタは、今その場でもしくは夜が明ける前に死ねるだろうか。
それを実行すれば、今のアナタの意識も、それまでのアナタの全ても、何もかもがまるでテレビやパソコンやスマホの電源を落とすかのように消えてしまい、そしてその電源が二度と入らない状態になる。
それを知ってなおやれるだろうか。
もしも自分の目の前にそう言ったディスプレイがあるのなら、電源を落とした真っ暗なソレをじっと眺めてみると良い。
死ぬとは、その状態なのだと。
そこに明るく鮮やかで様々な情報をカラフルに映し出す事は二度とないのだと。
死とは、それそのものなのだと。
自分の死を、その何も映らない黒い画面に投影してみるのも悪くないかもしれない。
自己経験による思い入れもあり、話が長くなりとても申し訳なく思う。
最後になるが、それでもなお死ねた人がいるのなら、一切の他意無く「お疲れ様」と言いたい。
その人の真っ黒なディスプレイに向かって、になるが。
身体の自然な生への執着を振り切るほどの死への妄執があって、かつそれを実行出来たのなら、それは紛れもなくホンモノの想いだったのだから。