孤独と痛みと耐性と
人は生きていれば孤独になってしまう時期もあるもの。その期間は本当に辛さの極限に襲われ続ける。現代はネットがあるのでただ一人孤独の闇に包まれる状態と言うのは、ちょっと考えづらい。
それでも自分の側に温かさが無く、その空間にただ自分だけがポツンと在る様な感覚に陥ってしまう。
さて、孤独だがまずこのテーマの結論から言うと
「孤独に耐える機能は人間には元から備わっていない」
ある科学実験によれば、孤独によって精神的苦痛を感じている時は肉体的な物理の痛みを味わっている時と同じ反応が脳細胞にて起こっているらしい。
つまり「孤独とはれっきとした痛み」なのだ。
だから「孤独に耐えよう」「孤独に慣れよう」とするのは、生物としてそもそもありえない発想なのだ。
仮にそれらが成る事があるとするなら、それは心が完全に死んでしまって初めて達成されるだろう。その時に目的を達成した喜びや充実を感じられる心が有れば、の話だが…
私自身も、孤独に近い立場になって年単位で奮闘して来た。
「人間として、男として、より高みに昇ってやる」
それだけを考えてひたすら動き続けて来た。
現実逃避の代表である、酒ギャンブル異性等々には何一つ手を出していない。別に意図的に我慢していた訳でなく、それらは修行の様な日々においてはただの邪魔でしかなかったので。と言うか元々それらに興味があった訳でも無く。
しかしそれでもたまに無性に寂しくなる事も多々あった。今でもある。
その中には、人間でなくても良いので猫でも飼ってみようかと思う事さえある。飼っている人や触った事がある人なら知っているだろうけど、猫の身体って物凄く温かいのですよね…
そしてそういう事を考えるたびに「まだまだ心の強さが足りない」と思い、翌日には誓いを改に胸に抱いたものだ。
しかし前述の科学的見地により、どうやらその精神的運動そのものが見当違いであったと知った。自分が孤独の状態にあるのなら、それに耐える強さを身に付けるのではなく、孤独の状態から脱出する努力をすべきだったのだ。
勿論、その間に人間として・男として高められた精神性は確実に私の新たな力になってくれている。なので、その全てが無駄であろうはずはない。
が、やはり方向性の間違い自体は認めるしかない。何より自分自身の今の状態が、それを完全に証明してくれているので。
高潔な人間像というものがある。そして人間社会にはそういう高潔さを手にする為に邁進すべきと言う強い想いがまことしやかに存在する。
しかし自分の周囲にそんな素晴らしいと言うよりも凄まじい人間に到達した人が居た記憶はほぼ無い。一見素晴らしく見えても、どこか茶目っ気があったり人間臭さを持っている人ばかりだった。
「清廉潔癖なる完璧主義」
そんな言葉が自分の脳裏に浮かぶ。この言葉によって私はどれほどの「本来得られたはずの力」を掬い落してきたのだろうか。
…などとは考えてもしょうがないのだが、こういう文章を書いているとそんな事にもふと想いが巡ってしまうのであった。