普通と言う解釈
どれくらい昔からかは分からないけど、この普通と言う言葉の解釈論は恐らく人類が群を成し言語を発達させた時期くらいからずっとあったものじゃないだろうか。
何せ人が群れれば、その中にはそこにある最大公約数にすら適応出来ない素数存在の様な変人も現れる者だろう。
で、普通の解釈である。と言うか正確には「普通じゃない状態・状況を忌避する人の心理」解釈である。
ここからは、何と無しの流れで箇条書き。
1.普通でないソレを認識しても直感で理解出来ない。
2.理解をしようとする感覚的な思考作業が習慣として無い。
3.理解出来ない事物に対しある種無意識レベルの不安感恐怖感を覚え、継続的に意識を向ける事を生理的に嫌う。
4.故にそれらの内実を推察する為に思考する事も放棄する。
5.結果的に、自身が知るその事物に対するカテゴリにある印象論をそのまま適応して判別に用いる。
これもある意味では私の感覚的な捉え方になっている。「決めつけジャン」と言われればその通りだと思う。
しかし私なりに「理解する事を拒絶する者を理解しようとしている」とは言い切って良いとも思っている。
何分身近にこう言った人がいて苦労して来たのでですね…
で、ここからは普通におびえる人に対するちょっとした声掛け。
ここまで書いた事を読み鑑みた上で、それでも「普通を強要する大きな声」に恐怖を覚えそれらに正しさを見出せるものでしょうか。
確かに社会で生きて活動する以上、周囲の大切な人々との調和の意識は持つべきです。
さりとて、普通に対する異常な固執を抱き周囲にそれを伝播させる、ある種の小心者に対して、アナタはそれほどまでに恐怖し怯える必要があるのでしょうか。
心小さい者がその恐怖心を内側で処理できないが故に、それを攻撃心へと転化し外側へ放出する。これが見習うべき人間像として捉えられるでしょうか。
生理反応レベルで恐怖を覚えるトラウマを抱いてしまった事実はそう簡単に消えるものじゃない。
でも生理反応が故に「自分が本当は何に恐怖し怯えているのか、それがもはや自分でも自身に明確に説明出来ない状態」だとするのなら、一度本気で自身の内にあり続けるトラウマの様な恐怖心に目を向けてそれを冷徹に分析してみるのも決して悪くないと思うのです。
少なくとも「アイツ普通じゃねーよな、マジキショッ!」なんて数年後に口癖のように吐いている人間にはなりたくないでしょう。