親と子と期待と成長と

毒親を持ちそれに酷い目に合っていると、大抵はきっとこう考える。
「自分の子供にだけはこんな目に合わせない」
と言う風に。
そうして実際に子供が生まれたり、またそうでなくても後輩や部下などに親の教育方針とは真逆かそれに近い方針を採る。採ってしまう。

私もずっとそんな風に考えていたし、ある時期から他者に接する時は人の心を無視し自己都合だけを押し付ける両親と反対の態度をとるようにしていた。
でもそれは本当に正しい事なのだろうかと、疑問に感じ始めている。
「自分が嫌いだからその逆をやる」
確かにそれは自分自身が得てしまった困難の問題解決には最短ルートかもしれない。しかし自分の家血筋とは一切関係の無い他者にとってはどうだろうか。

これを考えた時に「あぁ、自分はまだ全然他者の事を意識して見られていなかったのだな」と恥じ入った。本当にどれくらいぶりだろうか、自分の思想と思考それが生み出す主義主張に対し、真っ向から恥じた。悔しさの余り涙も流した。本当にどれくらいぶりだろうか。

私は自身の問題を解決出来た持論に対し諸に絶対の自信を持っていた。それは私の内側に実感の手ごたえに裏打ちされる確証があるからだ。
でもそれは言い換えれば、私の内側にしかない証明であり、他者にとっては一つの思想や概念でしかないのだ。もっと言えばただの言葉であり文字でしかないのだ。

書いていてやはり自信を本当に恥じる。恥じるしかない。
親の真逆をやればそれが成長だと感じ、信じ、計画し、実行し、乗り越え手に入れた確証が、自分の内側にある関所にしか通用しない手形でしかなかったのだ。

…やはり恥ずかしいな…
人からどう思われるかでなく、思いあがっていた自分自身が恥ずかしいのだ。


一体私はどこに向かっているのか。
春の日差しがほんの少しだけ迫るかもしれない季節に、私の心はシベリアの地にでも飛ばされたかのように感じられる。

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