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【掌編小説】ドライブ

 午前二時。
 原動機を背部に取り付けた洗濯機の蓋を開け、ジャンプして内部に乗り込む。この一連の動作はとくに練習をした。
 スタートを押すとぷすぷすと音を立てゆっくりと稼働した。もともとはドラム式の流線型のドアガラスに尻を突っ込み、まるで宇宙飛行士のように優雅に走りたかったが、妻からのお小遣いは足らずドラム式洗濯機なんて買えるはずもなかった。もちろん、本来の用途に使うのならばお小遣いの範疇を超えた予算追加の承認は得られたはずだったのだが、男はバカ正直に運転に使用する旨を告げてしまったのだ。
 ドラム式洗濯機に乗り込んで颯爽とかけていった同僚を見ながら少し後悔をした。しかし今になって悔やんでも仕方がない。もともと協力者のいない男にスタートのボタンを押せるはずもない。標準型洗濯機であれば、膝を折りたたんだまま乗り込み、さらにすぐ目の前にあるスタートボタンを自ら押すことができる。配られたカードで精一杯の努力をすることも粋である。

 排出ホースの部分を改造したマフラーから黒煙を撒き散らし、洗濯機は徐々に速度をあげていった。一般道から首都高へスムーズに乗り継ぐために、ETCカードの機械も取り付けたのがドラム式の同僚との差を埋めるのに大いに役立って心のなかでほくそ笑んだ。同僚は通行所での小銭の取り出しにもたついていたのだ。いくら最新のドラム式洗濯機とはいえど、ETC機器が付いてないことを考慮していないとは同僚もなかなか驕りが過ぎるのではなかろうか。

 時速は優に九◯を超えていた。表示板を速度メーターに改造していたので、だいたいわかる。

 男は巧みにボタンを操作し加速、減速し、煌びやかな夜景を背後にカーブを抜けていった。

 なんのためにそれほどまで速く駆ける必要があるのかと大学時代の友人に訊かれたことがあった。洗濯機が駆ける理由なんて汚れを洗い落とすこと以外に何かあるのか? とそのときは考えていたが、実際走ってみると、そんな答えでは満足できない。

「そんなものは、……」

 なんだろう? なんのために走るのか、走ったその先に何があるのだろうか。

 洗濯機は九◯キロから四◯キロまで落ちていた。それだけでなく、洗濯機はまるで脱水の時のように異音を発しガタガタと振動していた。

 洗濯機は汐留ジャンクションの直前で止まってしまった。車が超高速で走り抜けていった。ドラム式の同僚も小刻みなドラフトをかまして抜かして行き、ゲートに吸い込まれていった。

 スタートを何度も何度も押した。だがもう男に洗濯機を動かすちからはなかった。

 洗い流されたあとの結末なんて明らかだろう。ただ、終わってほしくなかった。ずっと走り続けていたかった。

 洗濯機は倒れていて、男も高速道路に上半身を放り出されている。洗濯機からは燻った黒煙が漏れ出している。

 男は洗濯機から這い出た。ユニフォームは油まみれになっていた。ガソリンが漏れ出していたらしい。洗濯機に乗っていたときは気づかなかったが、夜風が気持ちいい。

 男は汚れ切ったユニフォームの裾をはたきながら、膝下を杭のように首都高の地面に打ち立て、立ち上がる。

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