吃音とおしごと
「ありがとうございます」と「お疲れ様」がどもって言えない。
スーパーで品出しのバイトしか仕事の経験がないまま就職活動をして、
内定が出たのは販売職のみ。
勤められないと判断し、辞退して、バイトと派遣を繰り返した。
電話応対がこなせないから、バイトでさえ採用されるのに苦労した。
はじめての派遣
専門学校を中退したのが19歳の夏。
受験勉強もせず、帰宅すれば教科書を朗読する学生生活を送っていたから、学歴もなければ強みもない。
おまけに吃音者。
唯一得意であったタイピングを活かしたくてデータ入力の仕事を応募するも応募先に「工場へ行ってください」と言われ途方に暮れた。
根気強く応募を続け、公的機関で派遣社員として採用が決まった。
書類チェックであったり、封入作業であったり、誰でもできる仕事。
電話応対はこなさなくていいが、わからないことがあれば聞かないといけない。
名前を覚えていても人前でどもりたくないから「すみません」と声をかける。
不審に思ったスタッフがいたらしく、営業担当に「お疲れ様です」と復唱させられることもあった。
吃音は日によって調子の良し悪しがあるから、職員から挨拶をされて返せる日があれば返せない日もある。
不審に思われていたのだろう。
なんとか二ヶ月乗り切り、履歴書の職歴欄に記入することができるようになった。
職歴欄に派遣であろうと、空欄ではなくなると、数ヶ月に一回だけれど、データ入力として派遣社員で採用されるようになり、実家暮らしで情けないけれど、人前で最低限話せるようになるまで年収50万前後の生活が続いた。
はじめての日雇い
20代中盤になると、人前で少しずつ話せるようになった。
難発性吃音症で、どもりはじめると顔が痙攣を起こす(随伴症状)から、人付き合いは避けて、月に一度美容院へ通う時くらいしか人と話すこと機会は訪れないようにしていた。
22歳までとは違い、23歳になる🟰新社会人だから、それまで受かっていたデータ入力の仕事も次第に不採用となり始め、新しい仕事に挑戦しないといけなくなった。
やりたいこともなく、何のために働いているのか?
理由を見つけられなかったけれど、働くことから逃げ出せば、生きられない。
だから日雇いに挑戦をした。
搬入、搬出、事務所移転、肉体労働は単純作業だから自分でも務まると思っていた。
趣味でランニングもしていたし、体を動かすのは好きだったから。
でも、勤務初日にギックリ腰になり、話し方や顔を貶され、続けるのは困難であると判断した。
肉体労働の現場は、学生時代自分をいじめてきた同級生と同じような人種が集っていて、どもる、どもらない以前に”関わりたくない”そう思ってしまったのだ。
自分に合う仕事を探すことの大切さ
人前でどもりたくない。でも仕事はしたい。
それを叶えられる仕事は限られている。
いろんな仕事を経験してきたけれど(正社員以外で)一番性に合っていたのは、単発バイト。
長くて1週間弱の軽作業バイト。
スポーツ用品の検品であったり、少し重たい段ボールを運ぶ作業。
一緒に働くスタッフも日雇いだから、今日だけの付き合い。
気を遣うことなく、黙々と作業を進めればいい。
一番好きだったのは図書館の本の配架のバイト。
こちらは2週間近く勤められるから、自分にとってはご褒美みたいなものだった。
本の移動、ラベル貼り、コード読み取り、どれも好きだった。
本自体が好きだから、ずっとこの場所に留まりたいとさえ思った。
どちらも年に数回しかないから本業にはできない。
30を過ぎると正社員になれる職種も限られているし、今日どもる心配で精一杯だ。
電話応対の仕事も何度か挑戦してみたが、コールセンターやデパートのような話し方は、部屋にこもって朗読するだけならできるけれど、人前ではできなかった。
交通整理やイベント会場での呼びかけもどもってしまった。
ボクは思った。
声が届かないのなら、声を届けてみようと。
空白に飲み込まれていった言葉たちを、文章で綴れたら。
吃音を題材にした小説やビジネス本はたくさんあった。
自分だけがつらいわけではなく、同じような道を歩んでいるものがたくさんいることを知った。
小説家を目指すわけではなく、自分が残したいものを残す。
誰かのためでなく、自分のために。
吃音者として伝えたいことがあるから。
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