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彼女の宇宙 その2

 アマノは宇宙になってしまった。
 僕は何度もアマノのことを考えようとしたけれど、頭の中のアマノはどんどん大きくなっていって簡単に僕の容量を超えてしまう。もともととりとめのない、つかみどころのない性格だったが、ついに誰かの中に収まるような存在でなくなってしまったらしい。膨れ上がった考えをガス抜きするようにして、僕は眠りにつく。

 アマノと僕はそれほど親しい間柄ではなかった。高校に入って三ヶ月は、お互いに顔見知りですらない、名前もあいまいな、単なるクラスメートだった。それが初の席替えで晴れて「隣の席のひと」になり、さらに次の席替えでも隣同士になったときには、苦笑いし合うくらいになっていた。
 そして、二年に上がって新しい教室に入り、自分の席の隣に座っているアマノを見たとき、僕は不覚にも安心してしまった。アマノもまた同じようにほっとしたような表情を浮かべていた。
「またですか」とアマノが言った。
「またですね」と僕は言った。
「またしばらく、よろしくお願いしまーす」
 アマノがぺこりと頭を下げて、僕は笑った。

 彼女に最後に会ったのは、一学期の終業式の前日だった。
 その日も、授業が終わるとまず部室に行った。本館四階の端っこにある特別理科室が、僕が所属している天文部の部室だった。放課後にはたいてい僕だけで貸し切り状態だ。天文部の部員は今のところひとりしかいない。
 サウナのように熱気のこもった教室で、半ばもうろうとしながら天文の雑誌を斜め読みする。まったく頭に入ってこない。だめだ集中できない、暑い、暑いのがいけないんだ、と雑誌を戸棚にしまって部室を後にする。
 二週間くらい、そんな日が続いていた。本当は、暑さとか、どうでもよかったのだ。アマノの宇宙の話を耳にしてから、他のことが手につかなくなっていた。
 ノートを忘れたことに気がついたのは、単なる偶然だった。あとになって思えば、ただ教室に戻るきっかけがほしかったんだろう。別にすぐ必要になるものではなかったし、もしかしたらわざと忘れたのかもしれなかった。階段を下りて長い廊下を歩く。床にはまだ真昼の熱気がわだかまっていて、開いた窓から吹きこむ風も生ぬるかった。
 教室の入り口で、窓際の席に座っているアマノが見えた。濃い茶色のショートボブ、細い首、夏服の白いシャツ。ぼんやりしているとき、頭を少し右に傾ける癖があって、そのときも外を眺めながら頭が傾いていた。アマノの向こうでは、窓ガラスごしに黄みがかった空が見え、途切れ途切れの飛行機雲が白く光っていた。
 物音に気づいて、アマノがゆっくりと振り返る。「まだいたのか」って言ってから、なんてわざとらしいんだろうと思った。にこにこ笑う彼女に、何でもないみたいに近づいていって、隣の椅子を引いて、机からノートを取り出す。「忘れたんだ」
 アマノは、そう、と相槌を打つように、ひとつ頷いた。
 そのまま帰るのもなんだか気まずくて、けれど何を言ったらいいのかよくわからなくて、しばらく黙って突っ立っていた。蝉の声が教室の中で混ざり合ってわんわん反響して、それを聞いているとなぜだか焦った。
「なあ、アマノって、明日行くんだろ。明日、宇宙になるんだろ」
 彼女が頷く。
「アマノはすごいな、宇宙になるとか、すごいよ」
 そう言いながら、何を言ってるんだろうと思った。本当はこんなことを言いたいわけじゃない、もっと言いたいことが別にあったはずだった。
「すごくなんかないよ」
 強くて脆い声が教室に響いた。
「すごくないよ。みんながすごいとか、大丈夫とか、気をつけてとか言って、私はそのたびに大丈夫とか、ありがとうとか笑って答えてたけど、ぜんぜんすごくないよ。やっぱりすごい不安だよ」
 僕はアマノから目をそらした。蝉の声が遠ざかって、うだるような空気も、栓を抜いた風呂の水みたいにどこかへ流れていった。アマノは手を伸ばせば届きそうな位置にいるのに、まったく近づける気がしなかった。
 端的にいえば、僕はアマノが羨ましかった。
 僕は、宇宙になりたかった。
 どこか遠いところに行きたいと、いつも思っていた。現実から逃げたいとか、今の環境に不満があるとか、そういうわけではなくて、ただ単純にどこまで行けるのか知りたかった。小学生になるかならないかのころ、歩いて友だちの家まで行けることが妙に嬉しかった。それが、自転車で川の向こうまで行けるようになり、車や電車で遠くの町まで行けるようになり、船や飛行機で世界中に行けることも知った。ヒマラヤのてっぺんに登ることもできれば、深海何千メートルに潜ることだってできる。月にだって行ける。だからある時、人類は隣の恒星にすら行けないということを知ってショックを受けた。夜空にはあんなにもたくさんの星が見えているのに、そのほとんどに行くことができないだなんて。
 けれどアマノは違う。アマノは宇宙になるのだ。宇宙になってしまえばどこへだって行ける。アルファケンタウリどころか、オリオン座の馬頭星雲にも、アンドロメダ銀河も、おとめ座A銀河のブラックホールにも行けるだろう。
 僕は諦めていたんだと思う。それこそ小学生の頃は、自分が超光速移動やワープ航法を実現してみせると息巻いていたけれど、知識を得れば得るほど限界を感じるようになった。現在のテクノロジーのレベルでは云々、エネルギーの課題をクリアするのは非常に困難で云々、あれやこれや取り繕ったところで、結局はできない言い訳でしかない。
 だから、降って湧いたような話でどこまでも行くことのできるアマノが羨ましかった。初めてその話を聞いたとき、どうしてアマノが宇宙になれて、僕は宇宙になれないんだと思った。お願いだから代わってくれと、そう言いたかった。
 けれどそんなことを言えるはずもなかった。
「アマノ」と僕は言った。
「宇宙やるの飽きたら、帰ってこいよな」
 うん、と彼女は頷いた。少しだけさびしそうな目をして微笑みながら。

 翌日、アマノは終業式に来なかった。そのことについて、誰も、何も言わなかった。まるでアマノが最初からそこにいなかったみたいに。まるでアマノが死んでしまったみたいに。
 宇宙になるって、死んでしまうってことなんだろうか?


#小説

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