彼女の宇宙 その3
どこまで行っても似たような景色が続いてる、まっくらになって、ちょこちょこ星が集まってて、またまっくらになって、ここ、どこだろ、ってぼんやりつぶやいたら、地球からおとめ座銀河団の方角にまっすぐとんでもない距離移動してきたところだよって、私の中の宇宙が検索して答えてくれた、ねえ、あなたって、だれ? 宇宙? 宇宙って、だれなの? 私?
私が宇宙になるってことが大々的に発表されたとき、偉い科学者のひととか、変な宗教の教祖様とか、いろいろなふしぎな人たちから連絡があった、ぜひ研究させてほしいとか、宇宙神に対するぼうとくだとか、どれもよくわからなかったしもうあまりおぼえてないけど、ただひとりだけ、イシダさんという女のひとと会ったときのことはよくおぼえている。
喫茶店の一角で待ち合わせた、イシダさんは四十歳くらいだと思うんだけど、すごく若くてきれいなひとだった、私を見ると、こんにちは、アマノユウさん、はじめまして、イシダトウコですと言った、そんな当たり前のことに私はびっくりした、イシダさん以外のたくさんのひとたちはみんな、私の名前を呼ばなかった、彼らは私に会いに来たんじゃなくて、私がなる予定の宇宙に会いに来てた、彼らの目に私は映っていなかった、けれどイシダさんだけは違っていた。
私は運ばれてきたアイスティーにシロップを少し入れて一口飲んだ、何のお仕事をされているんですかと聞くと、イシダさんは、考える仕事をしています、と言ってふふふと笑った、喫茶店の大きな窓の外から、梅雨の中休みのいい天気、午前十時の光がさしこんで、それをバックに微笑むイシダさんは仏さまのようだった。学者さんですか? いいえ、学者は研究するのが仕事です。発明家とかですか? いいえ、発明家は発明するのが仕事でしょう、わたしの仕事はつまるところ、わたしについて考えること、それだけなの。それって仕事になるんですか。そうね、運がいいことにそうやって考えたことを文章にして、お金をもらって生きています。小説家とかエッセイストとかコラムニストとかですか? いいえ、わたしが書いているのは小説でもエッセイでもコラムでもないの、わたしが書いているのはわたしの考え、わたしそのもの。よくわかりません。アマノさんはどうしてわたしの仕事について聞いたの? なんで私に会いに来たかすぐわかるかなと思ったので。なるほど、学者なら研究するし、小説家やエッセイストなら話のネタにするでしょうね。
じゃあ、イシダさんはなんで私に会いに来たんですか?
わたしはあなたについて考えるために来ました。
私について?
正確には、あなたについて考えることを通して、わたし自身について考えるために来ました。
あなたは宇宙になるらしい、けれど、なぜあなただけがそうなのかということがわたしにはよくわからないの。だって、あなただけじゃなくて、わたしも、だれもかれもがそれぞれ宇宙であるはずなのに。
この前お会いした教祖のかたと同じようなことを言うんですね。
いいえ、これは宗教ではないの、宇宙であることが救いをもたらしたりはしないし、内なる宇宙を高めるとかいう話でもない、信じる必要もないの、ただそうあるだけ、ただ宇宙なのだから。
あなたとわたしは違う存在? それとも同じ存在? 違うと思います。そうね、あなたが考えることはわたしにはわからない、言葉を通じて推測しているだけ、じゃあ、と言ってイシダさんは飲みかけのアイスティーを指さした、これは何? アイスティーです。あなたにとってのアイスティーと、わたしにとってのこれは同じもの? それとも違うもの? 同じだと思います。どうして? え、だって……ここにあるアイスティーは、ここにひとつしかありません。でも、あなたにとってアイスティーに見えていても、実はわたしにはこれがメロンクリームソーダに見えているかもしれない、あなたが飲んだアイスティーの味は甘いかもしれないけど、わたしには苦いかもしれない、そういったことは、まったくないと言いきれる? ……あるかもしれません。そうすると、あなたにとってのアイスティーと、わたしにとってのアイスティーは別物ということになる、このテーブルも、着ている服も、このカフェもそう、カフェがあるこの街も、ひいてはその下の地面も、もっとひいて地球も、それなら宇宙がそうじゃない理由もない、あなたが見ている宇宙とわたしが見ている宇宙は違うもの、じゃあ、あなたが見ている宇宙はどこにあるの? わたしが見ている宇宙はどこにあるの?
イシダさんの話を聞いているうちに私はのどがからからになってしまった、イシダさんにとってのメロンクリームソーダかもしれないアイスティーを飲むと、私にとってのアイスティーの味がした、冷たくて甘くておいしい。
宇宙は、ここです。
ここって、どこ?
どこって……うまくいえないけど、ここです、と言いながら、私は広げた手をぶんぶんと上下に振った、もどかしい、もやもやする、こちらを見てにこにこ笑うイシダさんがちょっと憎らしくて、私はお返しする、じゃあイシダさんの宇宙はどこにあるんですか?
イシダさんは目をつむって言った、
わたしの宇宙は、ここにある。
ここって、どこですか?
わたしの宇宙は、わたしの中にある。
イシダさんが目を開いてほほえむ。
アマノさんにとってのアマノさん自身、アマノさんにとってのこのアイスティー、アマノさんにとっての宇宙、それらはすべてアマノさんが認識して初めて存在している、わたしを始め他者の手の届かないところに存在している、どこかというと、アマノさんの中にあるの、アマノさんの考えがわたしには間接的にしかわからないように、アマノさんの認識も、つまりアマノさんの宇宙もわたしには間接的にしかわからない、ひとはそれぞれが自分の中に宇宙を持っているの。
こういう話を知ってるかしら、宇宙は膨張し続けていて、距離が遠く離れているものほど速い速度で遠ざかっているらしいの、それについては詳しく説明しないけれど興味があったら調べてみて、それでね、ある一定以上離れた天体は、宇宙の膨張によって遠ざかる速度が相対的に光の速度を超えてしまうの、相対的にっていうのは、簡単に言うとそういうふうに見えるってことで、たとえばアマノさんが電車に乗っていて電車が発車すると、窓の外の駅のホームは本当は動いているはずがないのに、電車の進む向きと逆方向に移動して見えるでしょう、それと同じように、アマノさんから見て、遠く遠く離れた天体は、光速を超えて遠ざかっているように見えるってことね。
それでね、今、遠ざかっているように見えるって言ったけど、光速を超えて移動している物体は、わたしたちには見えないの、だってわたしたちは光を目でとらえることで見ているんだから、光よりも早い速度で遠ざかってしまったら、どこまでいっても光はこちらに届かないのよ、つまり、遠く遠く離れた天体は見ることができない、それが可視宇宙の境界とか、宇宙光の地平面とか呼ばれているの、見ることができる宇宙の果てってことね、実際には重力波とかでその向こうを観測できるらしいけど、けっきょく本来の宇宙のすべてをわたしたちは観測できるわけじゃない、宇宙はその向こうにも続いているけれど、わたしたちには知ることができないし、おそらく向こう側からもわたしたちのことを知ることができない、これって、アマノさんとわたしの関係ととてもよく似ていると思わない?
イシダさんと私はそれぞれが宇宙で、お互いに果ての向こうにいるってことですか? でも、私はイシダさんのことが見えているし、こうやって話もしてますけど。
アマノさんが見ているわたしは虚像で、つまりアマノさんの中にいるわたしであってわたしそのものじゃないの、今、アマノさんがわたしが存在していると思っているから見えているのであって、簡単に消すこともできる、接触をたって忘れてしまえばそれでおしまい、ただわたしにとってのわたしは確固として存在しているから、アマノさんが忘れてしまっても存在し続けるけどね。
私が首を傾げてばかりいると、イシダさんは笑って言った、これはわたしの考えだからアマノさんが無理に納得しなくてもいいのよ、アマノさんは自分自身でで考えて、自分が何者でどこから来てどこへ行くのか、自分の言葉で納得すればいいんだから。
イシダさんは私と話してて、何かわかったんですか、どうして私だけが宇宙になってしまうのかとか。
その理由はわからないけど、やっぱりわたしの考えは変わらなくて、たぶんアマノさんだけじゃなくて、わたしも含めて、誰もかれもがいつでも宇宙になり得る、というか、もともと宇宙を内包しているんだから、自分が宇宙になったり、宇宙が自分になったり、そういうことが今でも頻繁に起こっているんだと思う、わたしたちがふだん気づいていないだけで、だからたまたま気づいちゃったのがアマノさんだったんじゃないかな。
でも私は、べつに気づきたくなんかなかった、宇宙になんてなりたくなかったんです。
じゃあ、やめればいいじゃない、いつだって宇宙をやめて、アマノさんのなりたいアマノさんになればいいじゃない。
どうすればいいんですか、どうすれば戻れるんですか。
それは自分で考えるの、大丈夫、宇宙になったいまも、こうやってわたしを呼んで話をしているんだから、また話したくなったらいつでも呼べばいいから、相談にのるくらいならできると思う、ただおぼえていて、大切なのは自分で考えること、答えは自分にしかわからないんだから。
イシダさん、あの、と私が何か言おうとすると、イシダさんの笑顔が喫茶店の景色と一緒にぐにゃりと曲がった、虫眼鏡をのぞきこんだみたいに、それから、ゆがみが集中する一点に向かって引っぱられるみたいに、ずおおっと後ろにのびて、遠ざかっていく、何これ、待って、イシダさん、
アマノさん、思い出し、て、な、まえ、を――
イシダさん! と、叫ぶ声ものびて遠ざかって吸いこまれてしまった、音も、光も、何もかも、
あとにはただ、見飽きたまっくら闇が広がるばかり。