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たびするにほんご 後編

(前編はこちら

 朝、フェリーが港に着く頃には、幸先はすっかりやつれていた。一晩じゅう苦しみ続け、飛行機か、むしろ陸路にすればよかったと何度も思った。
 それでも内海に入って揺れが落ち着き、甲板に出て近づく街や並んで飛ぶカモメたちを眺めていると、なんとなく清清しい気分になった。これで揺れなければもっといいのに。
 船がとまる。タラップを歩いて上陸すると、足もとの確かさにしみじみ嬉しくなる。
 売店でポカリを買って、休憩所でベンチに座り、ちびちびとからっぽの胃に流しこむ。
「大丈夫すか」
 まだ頭に揺れが残っているのか、反応が遅れた。話しかけてきたのは、向かい側に座る青年だった。いかにもバックパッカーといった趣のリュックサックを脇に置いている。
 幸先が黙っていると、青年は言い訳するように「顔、真っ白だったんで」と言った。
「大丈夫じゃなかったけど、大丈夫」
 怪訝そうな表情を浮かべる彼に、どこか懐っこい犬のような印象を抱く。「船が苦手なんだ」と苦笑いしながら言い添える。
「それは大変でしたね」
「君も乗ってたの?」
「いえ、通りがかっただけで。休憩中です」窓の外を見やる。そこにはママチャリが一台止められていた。「自転車で一周してるんですよ」
「すごいね。野宿とかするの?」
「メインはキャンプ場ですね。宿にも泊まりますけど」
 青年は明日からの予定についてにこにこと笑いながら語った。私も、離れて暮らしている妻と息子に会いに行くことを伝える。
 一通り話し終えると、それじゃあ、と彼は立ち上がった。外へ出て、ママチャリに跨がり、すいすいと走っていく。手を振って見送ってから、ゆっくりと腰を上げる。

 とりあえず飯かな。
 お昼も近いのんびりした日差しのもと、蒙昧はペダルを漕ぐ。
 いつだって、その一漕ぎが自分をほんの少しずつ前進させることを知っている。

***

 炎節は踊る。波のように。
 音の雨が滝みたいに降り注ぎ、やがてからだを飲みこみ、歓声を上げる口から潜りこんで、うねりめぐりはじける。手足が自分の意思と関係なく震えねじれ脈打つ。からっぽの容器になる。私のなかは常に新しい色で満たされ入れ替わる。山の向こうの朝焼け、砂漠の炎天、氷上の星空、大樹の根元に落ちる木漏れ日。
 一曲が終わる。台風の目に入ったみたいに一瞬にして雨は止み、雲が吹き飛ばされて空が開け、わんわんわん、とからだの内側で音が反響しているのを聞く。私に染みこんでいくのを感じる。ギラギラ光る夏の太陽、芝生のにおい、汗のにおい、涼しい風を胸いっぱいに吸いこむ。青い空のなかにぽつんと飛んでいる飛行機を見つける。

 その飛行機のなかでは碧空が虚ろな目をして恋草に相槌を打ちながら、ひたすら耐えていた。恋草は体調が悪そうな碧空を心配し、どうにか気を紛らわそうと話しかけ続けていた。CAさんに英語で訊ねられたらどう答えればいいかとか、機内食についてとか、旅行の予定とか。
 しかし数分後、碧空はなかば意識を失うようにして眠りに落ち、恋草はひとり最新の映画に見入っていた。

***

 生ひ優るは四本の脚で走る。
 鉄の道は想像していたより歩きやすかった。石が敷き詰められていたからどうしようかと思ったけれど、横に渡してある木にうまく足をつけば痛くなかった。生ひ優るははじめおっかなびっくり歩いていたが、やがて駆け出した。からだが嘘みたいに軽かった。このままどこまでも走っていけるんじゃないかと思った。
 やがて着地する前足の先がひんやりとし始め、あたりは少しずつ霧に覆われていった。
 霧で周りがすっかり見えなくなってしまうと、生ひ優るは歩みを止め、ぶるるるっと体じゅうにまとわりつく雫を振り払った。そして再びゆっくりと歩き始めた。すると、鉄の道の木はいつの間にか縦に並んだ板になっていた。生ひ優るは板の上をてくてくと歩いた。板はどこまでも続いていた。
 ようやく板の向こうに誰かが立っているのが見えた。生ひ優るが嬉しくなってひとつ吠えると、そのひとはこちらを見て、名前を呼んだ。

 差添いは相変わらず先に進めずにいた。ただ、時折霧がわずかに晴れて、その切れ目に人影が見えるようになった。遠く離れたあれはおそらく川の向こう岸なのだろう、ぼんやりと霞んでいたが、確かにひとの形をしていた。よく見えもしないのに、差添いはその人影を知っていると思った。あのひとのところまで行きたい。強くそう願って桟橋を進もうとするも、けっきょく一歩も動けずにいるのだった。
 しばらくそうしていると、今度は何やら大きな影がこちらに近づいてくる。舟だった。舟が差添いのすぐ隣につけられると、ほとんど骸のような顔がひょっこり突き出て、乗れ、と言った。
 その時だった。わん、という聞きなれた声が差添いの背に当たった。振り向くとそこには真っ白な犬が尻尾を振りながら立っていた。
「マサル」
 犬は差添いに抱きついて、皺だらけの手をぺろぺろと舐めた。お前も来ちゃったのかい、と聞くと、くうんと鼻を鳴らす。

 差添いは犬と連れ立って舟に乗った。舟はゆっくりと川を渡り、一人と一匹を向こう岸へ運ぶ。

***

「やあ、でかくなったな」
 ほぼ一年ぶりに会う父さんはどこか間の抜けた調子で言った。
 涼飇は公園のベンチに座っていた。あたりはすっかり暗く、背後に生えた街灯が光って、涼飇の影を地面に落としていた。その頭を踏まないようにして父さんは立っていた。
「もう九時だぞ。帰らなくていいのか? 母さん心配してるんじゃないか?」
 父さんの顔は少し緊張しているようだった。なんでここにいるってわかったの、と聞くと少しだけ糸がゆるむ。
「小さいころ、一緒によく来たよ。すべり台をすべったり、池の鳥を見たりさ。そこのベンチにもよく座りたがった。理由はわからないけど」
「覚えてない」
「そりゃそうだよな、二歳くらいだったし」
 隣に座っていいかと聞くので、少し横に移動する。父さんはどかっと座って何も言わない。しかたなく涼飇は話し始める。
 今まで友達がいなかったこと。
 このまえ友達ができたこと。
 その友達が、突然いなくなったこと。
「いま、どんな感じだ?」と父さんが尋ねる。
「よくわからない」涼飇は呟く。「なんでいなくなったのかかわらないし、どうすればいいかわからない」
「じゃあ、どうしたい?」
 涼飇は驚いて父さんを見た。父さんはまっすぐ涼飇を見ていた。
「もう一度、会いたい」
「じゃあ、探そう。どうすればいいかなんて、会ってから考えればいい。会いたいなら、会いに行こう」
 でも今日は帰って寝るんだ。明日一緒に探そう、と父さんは言った。

 その翌日。
 幸先は、泣きじゃくる涼飇の頭を撫でていた。涼飇はながいこと泣き続けた。それから二人は、冷たくなった白い犬を弔った。

***

 辺鄙な山奥の温泉宿で、礼遇は存分に羽を伸ばしていた。
 駅前の観光案内で教えてもらったこの宿は、突然の宿泊にも関わらず女将さんも仲居さんも温かく迎えてくれた。朝晩は、山の幸に彩られた素晴らしい料理に舌鼓を打つ。温泉も最高だった。
 朝湯のあと、浴衣を着て鼻歌混じりで廊下を歩いていると、ちょうど礼遇の泊まる部屋の隣の扉が開いた。若い女性が顔を出す。絵の題材を探しに旅している画家さん。彼女もまた数日滞在しているらしく、何度か温泉で一緒になるうちに意気投合してしまったのだった。
「あの、ちょっといいですか?」
 彼女は遠慮がちに、絵のモデルになってくれないかと言った。
「えっ……ええと、私、ヌードとかはちょっと」
「いやそういうのではないです。着衣で、というか、浴衣姿がいいです」
 言われるがままに部屋に招き入れられ、窓際のソファに座ってお茶を飲む。過去の個展のDMをもらい、美術業界の話をあれこれ聞く。もうはや秋色に染まった風が吹いて、こっちの部屋からは川が見えるんだ、なんて思って景色を眺めていたら、視界の隅で彼女が、右手で片目を覆うのが見えた。
「それで、いつ始めるんですか?」と尋ねると、「もう終わりましたよ」と笑うので、礼遇はびっくりしてしまった。
 絵が出来上がったらお見せしたいと言われ、連絡先を交換して別れた。女性はその日のうちにチェックアウトしたらしく、礼遇は狐につままれたような気分だった。

 日常の忙しさにかまけて旅行のことをすっかり忘れかけていたある日、礼遇のもとに寸景の個展のDMが届く。
 会場で礼遇は、紅葉に彩られた山裾に座る自分とともに、夏空を切る飛行機雲と、雨のなかで激しく踊る女性と、線路を走っていく白い犬と、どこまでも続く桟橋と、公園で鳥に餌をやる少年と、緑の葉をいっぱい広げた大樹と出会う。

***

 奇偉はじっとその場に佇みながら、しかし己は旅をしていることを知っている。

 種子が転がり運ばれて、遠く離れたところで子どもたちが芽吹き、成長し次の種子をつけるように。
 根から吸い上げた一滴が幹を枝を行き渡り、葉から外へ出て空に昇って雲となり、やがて雨になり降り落ちるように。
 分解された実や樹液が虫や鳥やひとを介して巡りめぐっていくように。

 生きることそれ即ち旅なり。

 ゆえに奇偉は、子どもたちに向かって呼びかける。
 一滴に向かってそっと囁く。
 虫や鳥やひとに向かって手を振る。

 よい旅を。

 その返事を耳にして微笑む。

「よい旅を」。

 

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