酔客旅譚1 祭
おい、そこのあんた。やけにさっきからこっちをじろじろ見てるな。俺の顔に何かついてるか?
それとも……もしかしてあんた、俺の顔が見えないのかい。
*
二つの腕に抱えられた湾の、岸にある小さな町だった。俺は町で唯一の安ホテルにチェックインした。201号室。
見知らぬ土地では最低でも二泊すると決めている。着いて一泊、翌日ぐるっと巡って二泊。はっきりとした目的もなく流れているが、少なくとも流れることが目的じゃない。
小窓越しに、フロントの無愛想なおっさんに鍵を預ける。外はもう暮れかけていて、東から藍夜が茜空を飲み始めた時分だった。山からの風が涼しい。
来る途中に目星をつけていた飲み屋の暖簾をくぐる。十人座るのがやっとの、カウンターだけの店。両端に地元の常連さん、ちらりとこっちを見てすぐに目をそらす。俺は真ん中の席にどかっと腰を下ろす。何にします? 鋭い目の店主に刺身と酒を注文する。壁に張り紙してあるやつ。
海の近くは魚がうまいし山もあるから水もうまけりゃ米もうまい、当然酒もうまい。俺はしこたま飲んで盛大に酔っ払った。店主が苦笑いしながら、兄さん、酔っぱらいすぎですぜと言い、右奥のおっちゃんもよそもんは酒が弱いなというようなことをきつい訛りに乗せて笑う。うまいんだから仕方ないよ。ろれつの回らない口調で言うと余計に笑われる。
さらに酔いが回り、ほとんどカウンターに突っ伏すような体勢でいると、左奥の寡黙な男が隣の連れに囁いた。
「明日、祭の後でどうだ」
「どうせ昼まで飲んでるんでしょ」
「家に閉じこもってやることなんざ、酒とあと一つしかない」
小さな声にも関わらず、訛りもきれいに変換されてするりと耳に滑りこんだ。まつり。まぶたの裏で言葉は泡になって弾ける。ざあ、ざ、ざぶん、どこからともなく波が打ち寄せる。勘定も帰り道も残りの記憶はぜんぶ、波に洗われてかき消されてしまった。
重い頭を持ち上げると、小さな窓の薄いカーテン越しに太陽と目が合った。いつの間に寝たんだ? 掃除用具入れみたいなユニットバスの、洗面台で顔を洗う。跳ねる飛沫にざぶんと何かが思い出されかけたが、予感はすぐに引いていって見えなくなった。
フロントのおっさんはいくら呼んでも出てこないので、鍵を持ったまま外に出た。ぬるい潮風が二日酔いの頭を揺さぶってくらくらする。歩けば酔いも覚めるだろう。
海へと下る坂道には人っ子ひとりいやしない。くすんだ緑色の町を軽く左右に振れながら行く。途中で古い自販機を見つけた。半信半疑で硬貨を入れると律儀に赤いランプがついて、ボタンを押すとゴトンと缶が落ちる。満月麦酒の青い缶。ぷしゅ、ぐびりと一口飲めば迎え酒の望洋。ふわりと香る檸檬、角のとれた丸い苦み。空もエメラルドグリーンに光って見えるから不思議だ。
突き当たりの低い防波堤の向こうには湾の砂浜。昼前の光を反射しながら波が行ったり来たりを繰り返している。錆びた標識に「海岸通」の文字がかろうじて読めた。遠くには舟が四、五艘とまった小さな漁港も見える。
それにしても人がいない。防波堤を背に麦酒をぐびりとやりながら緩くカーブする道をぼんやり眺めていると、霞んだ先に動くものがあった。行列が一定のリズムで揺らめきながらこちらに近づいてくる。ようやく昨夜の記憶を少し取り戻す。
祭。
先頭は獅子舞、それから獅子舞、獅子舞。二十はいるだろうか、薄っぺらな布製のからだをくねらせひるがえり、それぞれが好き勝手にひらりひらりと舞っている。かと思うと、ぴったり揃ったタイミングで顎を天に向けて開き、歯をカッと鳴らす。太鼓の音と合わさって、ドンドンカッ、ドン、カカッ、といった調子だ。
その先に駕籠のような形の神輿。高さは二階建ての家ほどもあり、進むたびに危なっかしく前後に揺れる。三歩進んで二歩戻り、ゆるりゆるりと行進する。てっぺんには真円が縦に切られた意匠。左右で白黒に塗り分けられている。
側面の格子窓、隙間から覗くのは縦に連なる無数の眼。俺と目が合うと笑むように細められ、いっせいに瞬きした。温い指で剥ぎ取られるような感覚が背筋を走り、思わず身震いする。しかし改めて見れば窓はぴたりと閉まって視線を拒んでいた。駕籠の後ろにも、獅子舞、獅子舞。
額がひやりとしたので触れると濡れている。掌を晴れた空に向けて開くと、小さな氷の破片がついて、すぐに消えた。いくつもの光の粒となつて降り注ぎ、砂を被ったアスファルトの上に落ちてさりさりさりと囁く。そばから溶けて蒸発し、あたりに靄が立ちこめる。ひらりひらりと舞う獅子も、ゆらりゆらりと揺れる神輿もあっという間に隠れてしまう。太鼓の拍子が急に遠ざかり、やがて一陣の風が吹き抜け足元から靄が晴れると、行列もかき消えた。
俺はしばらくのあいだ、人っ子ひとりいない海岸通りで茫然としていた。磯のにおいを乗せた風が一つ、また一つと吹いたところで我に返り麦酒を煽ろうとしたが、右手で掴んでいたはずの缶はなくなっていた。酔いはすっかり覚めていた。
まっすぐ坂道を上ってホテルに帰る。町の緑色は行きに比べていっそうくすんでいるようだ。ホテルのドアを開けようとしてもなかなか取っ手を掴めない。やっと開いたと思ったらそこにはフロントのおっさんが仁王立ちしていて「あんたなんで外に出た!」とかなんとか唾を飛ばした。怒鳴っているらしいその声は何枚もの膜を通してかろうじて届き、俺は「酒がなくなった……」とぼそぼそ呟いた。おっさんは黙って奥に消え、鍵と一緒に一升瓶を出してきてどかっと置いた。「これをやるから明日出てってくれ」。もとよりそのつもりだったが、タダでもらう酒ほど怖いものはない。しかしおっさんのひきつった表情に気圧され、断るに断れない。わかった、と答えてその場をあとにした。
階段で足を踏み外しかけ、部屋のドアノブが握れず、なかに入るころにはくたくたになっていた。おかしな日だな。もしかしたら俺はまだ眠っているのかもしれない。狭いユニットバスの洗面台で顔を洗う。タオルで拭い、前に向き直って、思わずうめいた。曇った鏡に写る顔は左側が半分なくなっていた。左右の瞼を閉じたり開いたりして、ないほうの目でも見えることを確認する。黒く塗りつぶされているようであり、ごっそりえぐられているようでもある。
ふらふらとユニットバスを出てベッドに腰かける。何も考えれないし何も考えたくない。フロントのおっさんがくれた一升瓶を開け、らっぱ飲みする。うまい。銘柄はなく、大きな記号が描かれただけのラベル。円が縦に割れ、左右で白黒に塗り分けられている。まるでさっき見た俺の顔みたいじゃないか。いや、気のせいだ。そう思いながらも鏡を確かめる気になれない。もう一度あおる。もう一度。視界が傾きぐらぐら揺れる。
酒を半分ほど空けたころ、妙なことに気づいた。ベッドを挟んで窓の反対側、部屋の片隅がやけに暗いのだ。始めは錯覚だと思った。今は午後で外は明るい、カーテンも開けてないから影が濃く見えるんだと。
しかし違った。影はむくりと起きあがったりはしない。それは影ではなく、実体を持った黒い塊だった。
それは振り向き、笑った。そうと分かったのは、俺の顔の左半分がそれの頭と思しき位置に貼りついていたからだ。
叫びながらベッドから跳ね上がる。一升瓶を抱えたままドアまで逃げた。ノブに手をかける。途中でガチッと音を立てて止まった。外から鍵が。閉じこめられ。視界が影に飲まれる。見ればすぐ後ろにそれが立っていた。真っ黒な腕が伸びる。捕まる。俺は咄嗟に瓶のなかの酒をぶちまけた。
半分の俺の顔が大きく歪み、黒い塊が怯んだ。脚のあたり、酒がかかった箇所からしゅうしゅうと煙が上がる。考えるより先にからだが動き、頭から酒を浴びて相手にも浴びせた。黒い塊は後じさり、もといた部屋の片隅に追い詰められると、だんだん小さくなって、やがて消えてしまった。
あとには酒臭い俺だけが残された。部屋の隅を睨んだまま、まったく眠れる気がしなかったが、ほとんど気を失うみたいに視界が暗転した。
明くる朝、まだ日が昇るか昇らないかの時間に目が覚めた。照明をつけて薄暗がりを殺し、酒をシャワーで洗い流す。途中で二度嘔吐する。頭が痛いが原因が二日酔いなのかそれ以外の何かなのか不明だし考えたくもなかった。洗面台で飲む水がやけにうまい。鏡は見ない。
ドアを開く。鍵は開いていたが、もともと鍵などかかっていなかったのかもしれない。
ドアを閉め、俺は飛び退いた。ドアの外側には白い布が張られていた。縦に割れた真円、白黒に塗られた意匠。何者かの高笑いが聞こえた気がしてぞっとする。
ふらふらと階段を下り、フロントまで来て俺は呻く。小窓にも同じ布が張られていた。
握っていた鍵を投げ捨てて外に出る。ドンドン、と遠くから太鼓の音が聞こえだす。それに合わせて獅子舞がカッと歯を鳴らす。
町中に布がはためいていた。そのすべてに例の割れた真円が描かれている。通りに並ぶ家々、満月麦酒を買った古い自販機、そしてあの小さな居酒屋にも。太鼓と獅子舞の音が大きくなっていく。まるですぐそばで鳴っているかのように。
居酒屋の引き戸が開き、なかから店主が出てきた。顔の前に例の布を垂らし、俺のほうを向くと合掌する。布の向こうの顔は半分しかなかった。
駅に向かって駆け出す。家々の戸が開き、顔の割れた人々が現れて拝んでくるのが視界の端に映る。やめろ。俺を縛るな。俺をここに縫い止めようとするな。
*
気づいたときには俺は駅のホームでベンチに座っていた。右手には切符、左手には缶ビールの入った袋。列車が到着する。そこに例の割れた真円がないことを確認して乗りこんだ。
すべて悪い夢だったのかもしれないと思った。俺は何も見ていないし、何も失ってはいない、そもそもこの駅から外に出てすらいないんじゃないか。
列車の固い座席にどかっと座ると、サイバーパンクIPAのプルタブを起こしてぷしゅ、ぐびりとやった。グレープフルーツの香を乗せた風が吹き、強めの苦味の潮が満ちて、薄い膜のように俺を包んだ。列車が軋みながら走り出し、また流れていけることに安堵した。
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