デイビッドと天使
デイビッドと一緒に暮らしていた頃、時間感覚はオレンジ色だった。夕日があって、真夜中を飛び越えて、明け方に泣いた。私はたいてい彼の隣で本を読んでいた。裸で、あるいは服を着て。カーテンを開けるとそこには海が広がっていて、私たちは小さなバスタブのなかでひっついて笑い合った。
彼は、地ビールのラベルと天井裏のねずみとサニーサイドエッグをこよなく愛していた。あとは君の着ているぶかぶかのTシャツも好きだよ、なんてコーヒー片手に口にした。
これ、あなたのシャツじゃない。
君が着ていることが大切なんだ。
そのくせ少しも私を愛していなかった。
ある朝、彼はキャンベルのオニオンスープを温めていた。私はことこという鍋の音を聞きながら、柔らかいシーツにくるまってまどろんでいた。
いつしかスープが煮え立って彼は姿を消していた。火を消して鍋を覗きこむ。ふつふつと沸く琥珀色の液体ばかりで彼が隠れている様子はない。しかたなく私はスープを飲んだ。それから横になった。デイビッドはすぐに帰ってくるような気がしたし、一方でもう二度と会えないだろうという予感もあった。
半分夢に沈みながら、私はデイビッドのどのあたりだろうと思った。足と手。ベッドに逆さまに寝転がって撫でる。首筋。鼻のかたち。細長い腕。水色の瞳。オレンジ色の時間。
私は彼の好きなTシャツを身につけてさえいればそれでよかったのかもしれない。水槽のなかを泳ぐ魚。降り注ぐ雨。お湯を沸かす音とコーヒーのにおい。ねずみの鳴き声を真似る。
目がさめたら、と彼の声が聞こえる。目がさめたら、君はここを出ていく、いいね。
私は丸くなって眠る。彼には皮膚がないから私には触れない。
*
天使がいた。
天使には羽がなかった。百均で買ってこればあると言った。
「あなたの家のドアにはいつもたくさんの足跡がついているけれど、どうして?」
僕は足跡がついていることすら知らなかった。とりあえず、幽霊のせいにしておいた。革靴を履いた幽霊は、夕方にやってきて明け方に帰っていく。
どうしたって自分の生まれた食べ物に行き着くの、と天使は言った。
「甘いものばかり食べていると味覚が鈍麻してしまって、甘さがいくらあっても足りなくなる」
僕は湯を沸かしながら、ふうんと思った。外は雨だった。ベーコンは肉ではなく油に分類されている。だからフライパンでベーコンを熱し、出た油でにんにくを焦がさないように焼く。パスタを茹でる。
天使はシーツにくるまって映画を観ていた。私は輸入されたの、と囁く。
「私は輸入され続けているの、ベーコンやパスタやとうもろこしやスタバのコーヒーといっしょ」
「明日、百均に行って君の羽を探そう」
「一万キロ以上あるのに?」
天使は寂しげに微笑み、すぐに無表情になって画面を見つめる。液晶のなかで、男の子が雪に埋もれながらメリークリスマスと呟いた。それはシーツから顔だけ出している天使ととてもよく似ていた。
天使はパスポートを持っていない。戸籍もない。自らを証明しない。僕は天使に触れる。腕に、足に、柔らかい髪の毛に。ぶかぶかのTシャツから出た折れそうな左肩、うなじ、耳たぶ、赤みのさした頬、唇。存在する。天使はここにいる。
ある朝、キャンベルのオニオンスープを火にかけていると、さっきまでベッドで寝転んでいたはずの天使がいなくなっていた。
僕は窓を開けた。冷たい空気が肌に刺さる。空はどこまでも晴れている。
ベッドに倒れこむ。シーツにはほのかに天使の香りが残っているような気がした。瞼を閉じる。
夢の中で天使に会った。Tシャツを脱ぐと肩甲骨のあたりから羽が生えている。百均に行ったの、と僕は訊ねる。近くの雑貨屋さんに売っていたのと天使が答える。
目覚めると、開けっぱなしの窓から風が吹きこんで、白いカーテンをひらひらと揺らしていた。夕暮れ時、薄暗い部屋を幽霊が訪れ、僕の顔を覗きこんで笑う。
メリークリスマス、と幽霊が言う。
メリークリスマス、と僕も呟く。