冬の海
「そうだ、海、行こう」
朝の満員電車の中で私がつぶやくと、京都かよ、とサタにつっこまれた。
今日の天気は雨で、列車の中はいつもより人が多い。ふだんかろうじて保たれているパーソナルスペースは今やゼロで、私たちはぴったりくっついている。温かいけど窮屈だ。窓ガラスが曇って、流れゆく街が水槽の中に沈んでいるようだった。水槽に閉じこめられてるのは私たちのほうか。口をぱくぱくさせる魚たち。酸欠になってしまいそう。
「本当に行くの?」
左の眉を少しだけ上げて、気だるげなまなざしをこちらに向ける。彼女の、静かに様子をうかがうときの表情は、私のお気に入りに登録されているもののひとつだ。
私がうなずくと、じゃあ降りようか、とサタは言った。言いだしっぺのこちらが、思わずためらってしまうくらいの潔さだった。
若い男のひとの声が、やけにタメを入れながら次の駅の名前を告げる。ナルシス車掌、と私たちは呼んでいた。駅に到着、しましたら、扉付近のかたは、一度外に出て、降りられるお客さまを、お通しいただきますよう、ご協力、お願いします。ここまではいつもと同じ。何の変哲もない、冬の雨の火曜日だ。
駅に着くと、サタと私はホームに降りた。そしてそのまま、ホームの反対側へ歩いていった。ふりかえって、さっきまで乗っていた列車を見る。日常はいともたやすくドアを閉ざし、右方向へと流れて行ってしまった。そしてサタと私は、非日常に乗りこんだ。非日常はとてもすいていて快適だった。
「北海道行きたい」
「なんで」
「広いから」
「寒いじゃん」
「けっこう平気」
「嘘つけ、いつもホッカイロしてるくせに」
「ホッカイロと暖房があれば、けっこう平気」
「ヒートテックは」
「ホッカイロと暖房とヒートテックおよび各種防寒具があれば、けっこう平気」
「誰でも平気だよ」
「ロシアとか行きたい」
「話を聞け」
「広いから」
「きいてない」
「ロシアってあれでしょ、ツンデレとかあるんでしょ」
「違うから。ツンデレたくさんだったら、みんな喜んでロシア行っちゃうから」
「凍えるヘルシンキでしょ」
「ヘルシンキはフィンランドな」
途中の駅で乗りかえる。きょろきょろしている私の手を引っぱって、サタはなめらかに改札をくぐる。知ってるの、と尋ねると、何回か家族で来たことある、とつまらなそうに言った。もしかしたら海の近くに親戚が住んでるとかだろうか。サタはそういう話をしたがらない。
次の電車は単線で、ワンマンのちっちゃいやつだった。がたんごとんが、さっきまで乗っていた快速と違って、のんびりしていた。あれは発電所、とサタが巨大な煙突の群れを指さす。無人駅を通りすぎた。単線の電車で鉄橋を渡るのは、子ども用のジェットコースターみたいで、意外とスリリングだった。
海が見えて、わー、とはしゃぐ。向かいのシートに座ったおばあちゃんが、こちらを見てにこにこ笑っていて、少し恥ずかしくなった。
小さな駅で降りたのは私たちだけだった。明らかに定期の範囲外で、調べたら運賃は千円をこえていて、チャージして改札にタッチするのに勇気がいった。自由は犠牲の上に成り立っているんだぜ、とサタがつぶやいて、せちがらいぜ、と私はうなだれた。
雨はやんでいたけれど、空には灰色の雲がしきつめられたままだった。風が強くて、潮のにおいがする。駅前の、ロータリーなのかよくわからない広場から、ゆるい下り坂がのびて、海へと続いていた。白く泡立っている波が、遠くからでもよく見える。
堤防の上に立つ。海だー、と叫んで砂浜に下りる。貝殻、小石、花火のゴミ、ペットボトル。薄いグレーの空の下に暗い鈍色の海が広がり、ぽつぽつと名前も知らない島が見えるのが、寒々しくてよかった。岩場に近づく。高い波がぶつかって、しぶきをあげている。
「サスペンスみたい」
「昼ドラか」
「サタさん、あなたが殺したんでしょう」
「全部あの男が悪いのよ! ニチヨウに言い寄ったりするから……」
「おおっ、私? 私が原因?」
「あいつ、誘ったらのこのことついてきて。誰でもよかったのよ、許せない……それで、ホテルにあった、灰皿で……」
「ガッ!」
「回想シーンな」
「ガラスの灰皿ね」
「やけにでかいやつな。それ、明らかに撲殺用だろっていう」
お腹をかかえて、波の音に負けないくらいの大声で笑い合う。そのときちょうど、ひときわ大きな波がきて、しぶきがサタと私に降りかかった。悲鳴をあげて、また笑う。
五分後、私たちはコンクリの階段に腰かけて歯をがちがち鳴らしていた。
そこで、ちょっと君たちいいかな、と言いながら若いお巡りさんが近寄ってきて、学校はどうした、さぼっちゃだめだろうとかマニュアル通りひとしきり叱ったあと、ここ寒いだろ、午後ティーでも飲む、って自販機で午後ティーとホットココアを買ってくれる、そんな展開を期待したけれど、残念なことに海岸にいるのは私たちだけだった。
「私は殺される側だと思ってたよ」
さっきの昼ドラのやり取りを思い返してつぶやく。サタは一瞬だけ考えるようなそぶりを見せて、「それはない」と言った。
「ないのかあ」
「なんでそんなに残念そうなの」
「べつにー」
波音を聞きながらぼんやりする。それはそれで、幸せなのかもしれないとか思う。言ったら怒られるから、言わないけど。
冷たい風がふきつける。寒い。「肉まんモフりたい」 と震えながら言う。
「コンビニあるよ」
「えっ、どこに?」
サタは立ち上がると、潮風に髪をなびかせながら、
「ついてきな」と言った。
どしたの、と笑うと、サタは「なんか知らないけど出てきたんだよ」と顔を赤くさせながらごにょごにょ言った。それがめずらしくて、私は何度も「ついてきなっ」って言ってはサタにはたかれた。お気に入りの登録がまたひとつ増えた。
#百合 #短編