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深緑に沈む

 萌木色のブックカバーを貰った。プレゼントに。背筋がぞくりとする近代文学をはさみこんで、バッグにぽとりと落とし入れると、それはまるで始めからそこにあることが決まっていたように、内側のポケットの奥にぴったり収まった。
 朝、ひとの多い電車に乗りこんで、バッグから本を取り出す。開いて、字面を目で追っていくけれど、今日はなぜかするりと入っていくことができなくて、半分違うことを考え始める。
 緑、好きだよね、と言われると、うん、まあ、とごまかしてしまう。たまたま選んだものが緑に偏って、緑が好きなんだと思われて、緑色のものを貰ったりして、そういうサイクルが続いている。本当のところはよくわからない。嫌いではない。私の好きは、そういうものなのかもしれない。
 いつか読んだ話を、ときどき思い出す。いつも深い緑色の服を着たおとなしい子が出てきて、その「湖のような」緑色と、「私のうみに、あなたを沈めてしまいましょう」というフレーズが強く残っている。記憶違いかもしれない。
 私は誰かを沈めようとしているんだろうか? 緑色の湖に?
 むしろ沈められる側かもしれない。みんなで私を緑に沈めてしまいましょう。周到に仕組まれた私緑化計画。私の周りに、緑が指数関数的に増殖する。
 そんな、まさかね。混雑した車内で笑みをかみ殺す。それからすっと心の温度が下がる。
 手にした萌木色のブックカバー。オリーブグリーンのバッグ。ライムミントのアルファベットがプリントされたシャツ。アイスグリーンのスニーカー。腕時計の文字盤はペパーミント。グリーンガーネットのピアス。
 こんなにもひとがいるのに、列車のなかは静まり返っている。冷房の風が髪をすり抜け、首筋を撫でた。どこかから赤ん坊の泣き声が聞こえる。

 風で揺れる葉っぱのように、ざわざわと音が戻ってくる。駅名を告げるアナウンスで、はっとして本をしまう。
 電車から降りて、歩きながら右腕のペパーミントをチェックする。八時五分。ひとの流れに乗って階段を下り、青緑色の定期入れをタッチして改札を抜ける。駅前の駐輪場に停めた自転車に鍵をさす。深緑に白いラインが入ったフレームは黒板みたいだといつも思う。
 ペダルに足をかける。こいで、進む、という単純さがいい。エネルギーを生み出している感覚、鼓動、呼吸、ドーパミン。
 並木道が好きだ。切り揃えられた庭木には、あまり惹かれない。天に向かって、ぼっ、と爆発するように広がった木が、好きだ。枝は軌道、葉は火花。
 会社までの十分間、私は息を吸う。
 緑色の海には、誰も、私も、沈まない。

#小説 #短編 #緑

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