イモータリティ、あるいは映画の魔
2022年にゲームという形で発売されているが、「ゲーム」という言葉から思い浮かべるものとは少々趣が異なる。風変わりな映像体験だった。
「IMMORTALITY」は、幻の映画スター、マリッサ・マーセルが主演した3本の映画と、インタビューなど関連する映像を集めたフィルム・ライブラリーという体裁をとっている。
彼女の初主演映画は1968年の『アンブロシオ』。16世紀ごろのマドリードを舞台に、敬虔な修道士がマーセル演じる女性に篭絡される物語だ。ただし、ある事情で映画はお蔵入りに。
次の主演作は1970年の『ミンスキー』。ニューヨークで起きた猟奇殺人。事件を捜査する刑事が、やがてマーセル演じる被害者の愛人と深い仲になっていく……というサスペンス。この映画もまた、ある事情で公開されずじまいになってしまう。
そして長い年月を経て製作されたのが、1999年の『Two of Everything』。人気スターと彼女の替え玉を務める女性という一人二役に挑んだマーセル。しかし、スターが殺され、その分身が復讐の道を歩み始めるという物語は、やはり日の目を見ることはなかった。
『Two of Everything』に登場するマーセルの外見は、数十年を経ているにもかかわらず、過去2作のときと変わらない(同じ人がマーセルを演じていることを抜きにしても、そもそも老けているような表現が見られない)。そのことについての説明は特にない。彼女には何らかの特異な事情があるのではないか――Immortality(不死)というタイトルが意味するところと関わっているのでは、と想像が膨らむ。
ところで、フィルム・ライブラリーと書いたものの、ゲーム内では3本の映画と関連映像を自由に見られるわけではない。映像は数十秒から数分の長さの細かい断片に分かれている。最初にアクセスできるのは、大量の断片の一つだけ。
他の断片にアクセスするには、映像の中の「人物」や「物体」をクリックすることで、別の断片へと移動できる。例えば、スタッフをクリックすれば、その人物が仕事に従事している別のシーンへ。花をクリックすれば、どこかに花が映り込んだ別の場面へと飛ぶ。これらの断片間の繋がりには、一見すると明確な法則性は見当たらない。しかし、このように断片から断片へと渡り歩くうちに、3本の映画とその関連映像の全容が少しずつ姿を現していく。
映像は必ずしも断片の冒頭から再生されるわけではない。多くの場合、シーンの途中から始まる。視聴者は自由に巻き戻しや再生速度の調整が可能だ。そうして様々な断片をスロー再生したり、逆再生したりしているうちに、どこか不自然な違和感を覚える瞬間に出くわすことになる。
そして、そいつに遭遇する。
映像を細かく観察していると、突如として不可解なシーンに遭遇する。それは通常の文脈からは完全に逸脱した、本来そこにあるはずのない存在だ。
一度それを見つけると、もう後戻りはできない。断片から断片へと探索を重ね、すべてを探し出さずにはいられなくなる。そうして映像の迷宮を彷徨ううちに、表層の物語の背後に潜む、もう一つの物語が姿を見せる。
この作品は、幾重にも折り重なる虚構の層で構築されている。
マーセルが主演した3本の映画。
それぞれの映画が作られていく過程。
さらにその奥底にある秘められた物語。
深層に潜むものが、いくつもの虚構の層を突き抜けて、現実の自分にまで侵食してくる――そんな感覚に襲われる。
それぞれの層のストーリーも入念に組み立てられている。『アンブロシオ』のキャストやスタッフの人間関係が、『ミンスキー』劇中の人間関係と重なりあうつくり。あるいは、最初の2作がファム・ファタルものであるのに対し、『Two of Everything』は女性の復讐劇であるという対比。そういう要素どうしの関係が、映像の断片を脳内でつなぎ合わせるうちに、重要な意味を持つようになる。幻の映画とその製作過程だけでなく、よりスケールの大きな、歴史上の隠された領域にまで踏み込んでいく。
「IMMORTALITY」でフィルムの断片から断片へと飛び回るうちに、ある小説を思い出した。
セオドア・ローザックの『フリッカー、あるいは映画の魔』だ。こちらも、映画を扱った作品である。
主人公はかつて映画館でマックス・キャッスルの作品に出会った。今では忘れられたB級ホラー映画の監督だ。だが、彼はその魅力にとりつかれてしまった。キャッスルの作品には、目に見える以上の何かがあるのだ。散逸していたキャッスルの作品を探究する彼は、やがて映画学科の教授となった。そして研究を続けるうちに、彼はキャッスルの映画に隠された壮大な秘密にのめり込んでいく。
映画に関する事実の隙間に、そっと虚構をしのばせる。架空の映画監督キャッスルは、この小説の中では『市民ケーン』のオーソン・ウェルズや『マルタの鷹』のジョン・ヒューストンにも影響を及ぼし、虚実入り混じった映画史が語られる。
キャッスルの作品も詳しく語られ、その撮影や編集の技巧についてじっくりと掘り下げて論じられる。そして、表面的な映像の下に別の何かが仕込まれているという話へと発展する……。
この小説と「IMMORTALITY」とは、内容も構造もまるで異なる。だが、映画のコマとコマの隙間に隠れた何かを探っていく趣向は共通している。フィルムの編集や再生の過程に秘密を埋め込んでいく手際も、手法や構造こそ異なっているけれど、その背後にある思考/志向には似通ったものを感じる。
そして、壮大な嘘によって、プレイヤーあるいは読者を虜にしてくれるところも同じだ。
明らかになっている事実はあくまで表層であり、その裏側には異なる真実が隠れている――『IMMORTALITY』も『フリッカー、あるいは映画の魔』もそう囁いてくる作品だ。隠れたものが掘り起こされる悦楽を満喫できる。