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【小説】灰色の林檎


序章 月


(そろそろかな……)

 腕時計を確認する。アナログ式の黒い腕時計。アラーム機能も日付機能もないシンプルなものだ。バンド部分は何回も付け替えたのにもかかわらず、ところどころ擦り切れている。新しい学生服を着ていると、古くさい時計が嫌でも目立つ。それでも茜にとっては、手放したくない大切なものだった。

 子どものころ、スーツを格好よく着こなした父親が出勤前、時間を確かめるために腕時計を確認する動作にひどく憧れていた。この腕時計は、そんな父親の真似をしたがる茜を見かねた母親が、しぶしぶ買ってきてくれたものだった。嬉しくて嬉しくて、当時は文字盤も読めなかったのに、何度も時間を確認するふりをした記憶がある。

(あと十二分か……)

睡眠薬を服薬したのは午後九時。効果が表れるのに小一時間かかるとパッケージには記されていた。今は午後九時四十八分だ。誤差を考慮しても、あと五分ほどは起きていられるだろう。

心臓が、うるさい。胸の内側から、全力で体をノックされているみたいに、バクバク、バクバクと騒いでいる。背中に汗まで滲んできた。初めてサッカーの練習試合に出場した時も、両親の交通事故の知らせを電話越しに聞いた時も、昔から緊張すると、手ではなく真っ先に背中に汗をかいた。

怖くない。頭ではわかっている。体が怖がっているのだ。


——茜は海にいた。墨を垂らしたような空と海。吹き付ける風も、心なしか肌寒い。夏とはいえ、九月の夜は少し寒い。半袖のワイシャツから伸びる両腕に、かすかに鳥肌が立つ。背中の汗が冷やされて、ぞくぞくする。

 足元に波が打ち寄せる。茜が立っているのは、地元では有名な「赤色灯台」の真横だ。砂浜からちょうど二十メートルほど伸びるコンクリートの足場の端に、「赤色灯台」はある。表面が赤色の塗料で彩られていて、派手で目立つ。このあたりの子どもは、外遊びの待ち合わせ場所にこの灯台をよく使う。茜も幼いころ、赤色灯台でよく友達と待ち合わせた。先に着いたほうが灯台の反対側に隠れて、後から来たほうを驚かせるというのがお決まりだった。

中学性になってからはもっぱら、妹の桃香と訪れることが多くなった。当時小学校に入学したばかりだった妹は、砂浜で貝殻を集めるよりも海が波立つ様子を眺めているほうが好きだという変わった感性を持っていた。桃香の付き添いは、案外退屈でもうっとうしくもなかった。わがままは言うが、引きどころをしっかりとわきまえていたし、やはり、たった一人の家族だったから……。

今日は波が穏やかだ。灯台に背を向け、コンクリートの地面の端に座り、ゆっくりと片足を海につける。一瞬躊躇した。本当にいいのか。本当か。

(本当も、何もない)

今更、と言い聞かせる。もう片方の足も海につける。少し冷たい。けれども心地よい。心臓の音が静まってきた。海になだめられたみたいだ。

再び時刻を確認する。きっかり、九時五十五分だった。

勢いよく海に飛びこむ。小さなしぶきが上がった。

砂浜付近の道路を走るトラックやバイクの音が、時折かすかに聞こえた。誰も、茜に気が付かないだろう。真横には、「赤色灯台」があるのだ。深紅に燃える、大きな明るい灯台があるのだ。ちっぽけな茜のことなど、誰も気にも留めない。

あと五分、適当に泳いでいればいい。そのうち睡眠薬が効いて、意識の無くなった体は、勝手に海底へ沈んでいくだろう。

不意に涙が出てきた。視界がぼやける。海水と混ざって、もうどれが涙なのかはわからない。

(こんな風に……)

こんな風に、命を終わらせるつもりではなかった。もっと幸福で、温かなものに囲まれて、きれいなものだけを見て生きていたかった。

だけど、もう、決めたことだ。

——波をかき分ける、茜の両腕が停止した。一呼吸おいて、両足も停止した。物体になった茜の体は、ゆっくりと、沈んでいく。

消えゆく意識の中で、夜空に浮かぶ、三日月を目にしたような気がした。

美しく、淡い、光を。

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