2005年ゲーム幻視

最近ハードオフやブックオフでゲームを漁っている。おもにPS2のゲームが目的。PS1はPS3にCDを突っ込めば動くしそこそこアーカイブスも充実していて環境はあるが、PS2はアーカイブスがかなり過疎地ぽくなっていて、例えばブレスオブファイヤ5をどうしてもやりたくなっても以前売ってたアーカイブスから消えてたりする。あのどこの中古屋でも数枚100円玉を出せば買えていたソフトができないのだ。ネタとして消費しつくされたアンリミテッド・サガでさえ絶滅危惧種である。アーカイブスにないとこの先の時代はmoonの復刻のようにファンの熱い期待に応えない限り採算性のないタイトルがプレイできる機会は永遠に失われる。ネタ性が高いものならまだいいが、例えばシャドウハーツを覚えてる人はいるのだろうか、それはあらゆる意味で復刻に適さない条件が揃っていて、早晩失われるゲームなのだ。と、ヤバい妄執を抱えて100円だの260円だので売ってるゴミ同然のPS2ソフトをサルベージしに妻に呆れられながら車を走らせ、ブックオフを地図アプリで見つけては胸を高鳴らせた。入店するとPS2はちゃんとコーナーがありブックオフは私のような思い出迷子を顧客としてちゃんとビジネスをしているんだということが分かる。野田のブックオフにはバンピートロットが4300円くらいで売ってた。昔中古屋巡りしたときにはお目にかかれなかった。amazonのマケプレでも7300円くらいだ。高いと感じたが買った。

きっかけはラジアータストーリーズをプレーし忘れたことを思い出したからだ。なぜというと、似たような発想で自作ゲームを作ろうとし、諦めたからだ。ゲーム世界に時間の流れがあり、住人がそれぞれの生活をもっている、というゲームは枚挙に暇がない。ムジュラでもワーネバでもあるし、ライトニングリターンズもあるし、エスケーピストもあるし、ガンパレも入ってくるだろうし、moonにはじまる派生形もそうだし、実はかなり陳腐で、なおかつ面白くさせるのが難しいが魅力的なアイディアだ。エンドネシアはメチャクチャ難しいが決まったスケジュールをNPCは持っており決まった時間帯でイベントトリガーを引く必要があり、ミスると世界がループし続けるので次のループを待たなくてはならず、そんな感じでNPCも20体以上いるもんだから妙にスケジュールを忙しく計画せねばならない。これは最もイケてない例だが、不思議と世界には魅力が宿るのも事実なのだ。NPCが演算され続けている世界と言えば、飛先生のグランヴァカンスのような仮想世界SFのパターンであるが、ゲームの魅力が、とりわけRPGというジャンルにおいて箱庭としての世界、デジタルと記号で作られた、没頭でき、尽きせぬ魅力と謎をもつ世界の構築という部分にあることはあり、オープンワールドというジャンルが成熟しているが、世界があるということはゲームでは暗黙的な一つの巨大ジャンルだと思う。その世界の表現として、そこにNPCが勝手に暮らしている、というのは見果てぬ夢としてゲーム制作者を魅了し続けるアイディアの一つなのだろうか。

2005年。ラジアータストーリーズが発売された年だが、特に象徴的なことが起こった年ではないし、どんなゲーマーに聞いてもぼんやりとしたイメージしかないだろう。デビルメイクライ3や三國無双4が出た年だ。だがクロックタワーの実質最終作になった女主人公モデルがやたらとエロいDEMENTOがあるし、ミンストレルソングがある。ティアリングサーガの死んだ年でもあるし、メタルスラッグもメタルマックスもドラッグオンドラグーンも武蔵伝もグランディアもこの年に実質死に、超えられなかったのかもしれない。そしてワンダと巨像とゴッドオブウォーが出た。実は龍が如くも生まれており、それらは確実に次世代のオープンワールドや洋ゲーAAAの躍進を予言している。

今のゲームと、ラジアータストーリーズなるものの最大の違いは、記号を操ることでゲームデザインをするしかなかったかどうかだと思う。RPGは記号で世界を表すが、オープンワールドは記号的ではないアプローチとして世界の広さをベタに志向する。まあ、アセット制作の工数やVRAMという物理制約がいまだに繰り返しを求めるが故の逆説的な記号化と不可分だったりするんだけど、少なくともRPGの、例えばドラクエ3のころの世界はたしかに世界であるが、すべて記号だった。RPGはペルソナ5などの一部成功作を例外として、今や廃れたと言ってよいが、バトルシステムが複雑化したりターン制ばっかりで飽きられたりといったJRPG特有問題はあるのだろうけど、本質的にはグラフィックの進化にともない、記号性がグラフィック情報量によって埋め尽くされた結果、記号を操るメインだった遊びの部分が滅んだというのが原因ではなかろうか。ラジアータストーリーズは280名だかのNPCがそれぞれ固定のスケジューリングをもって世界を生きているJRPGであり、今ではインディータイトルでもやりそうにない野心的なことをそれなりの予算をもってスクウェア・エニックスが承認したプロジェクトだったわけだが、その歪さは記号を操る遊びの最たるものに感じる。いっぽうでベタにoblivion-skyrimが世界にいる人々はみな生きてますよーをやり、時代を勝ち取るわけだけど。

オープンワールドゲームはますます大予算化するだろう。むかしシェンムーが60億円かけたと言って驚いていたが、GTAVやRDR2の予算は2億ドル級なので200~300億円とかであり、ますます世界というゲームジャンルは隆盛、巨大化していくだろう。かつての記号を操るメインのゲームデザインは時代の裏に消え去っていったが、オープンワールドサバイバルが流行ったようにときに表舞台にでてきて共謀することもあるのかもしれない。勿論、ハッキリ無視しているがシミュレーションゲームのジャンルでは記号を操るメインはそのままジャンルの強味として残ってるのでありfrostpunkがどうとかそういうのは無視している。なぜかというと自分はあまりシミュレーションゲーム、たとえばsivであっても世界を感じることはないからだ。あれらは世界、というゲームジャンルがあるとするなら少し外れているような感覚がある。

結論はとくにないし要らないと思うが、2005年付近できっと記号を操るメインの世界ゲームは死んだような気がしてる。同時に、今のツシマだとかなんとかの、ちょっとベタで退屈な世界ゲームが蔓延る時代もこの付近で生まれたような気がする。ワンダと巨像の空っぽで広いだけだけど、なんとなくなんかいい感じにワクワクした何もなさが、無性になつかしい。

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