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フィルムをソートにかける ー「自由が丘で」
ホン・サンス監督の「自由が丘」は主に時間とそれにまつわる精神について、編纂という手法で整理された映画であると解釈した。
映画制作において、順撮りという脚本の時系列に沿って撮影していく撮り方がある。この映画ではその順撮りからまず、疑っている。その疑いは、カットを追う中でみえる。映画を見る中で気付かされるのは、これは過去なのか現在なのか未来なのかカット割りの間合いが自然に作られているため、初めは体験し得なかったカットを追う度に体験する目眩。そこで感じる、俳優はこの映画をどう演じ、役作りはどうしているのか、といった疑問。
ホン・サンス自身は撮影をする度に脚本を書いており、その度に映画が生まれるという。そのためだろうか、その行き違い、シャッフルされた感覚、ズームの撮り方がどれもリズムになっている。濱口竜介のオムニバス映画、「偶然と遭遇」にも1話の物語の中に唐突なズームが差し込まれている。鑑賞者はこれまで複数の素材を通して1シーンを描くのではなく、常に定点で撮影されていたため、唐突なズームで違和感を抱く。ホン・サンスのズームにはその急なズームを感じさせない。それは、ホン・サンス自身が生み出した即興にも見えてしまう。
そのズームやリズムの即興ついて考えたとき、冒頭、主人公が持っていた手紙が落とされ、これまでやり取りされていたであろう時系列がランダムにシャッフルされてしまうシーン。そこから時間が行ったり来たりする映画が始まる。この展開の作法からも即興的な身振りを感じてしまう。この作用は果たして偶然なものなのか作為的なものであるのか、鑑賞者は映画に入り込みながらホン・サンスの即興について考えてしまう。
映画の中盤、マネージャーにみえる厚ぼったい中年の人が加瀬亮演じる主人公、モリに仕事は何をやっている、と聞いてモリは無職であると話す。そして、別のシーンでマネージャーがアーティストみたいだな、と伝えモリが不機嫌な表情で店を出るシーンがある。ここで考えるのは、そのマネージャーが無職とアーティストである事が同じ意味であると考えている所である。
定職に就いている会社員と称される人々にとって、時間は労働時間として担保される。その中で会社員は会社のための時間とプライベートの時間にある隔たりを持って生活を営む。このライフスタイルは自営業、ないしアーティストとはまた異なった時間を持っている。この時間をモリは持っているが、他方でアーティストでもなく、自営業もしていないモリはその時間でさえも存在していないという疎外感を感じてしまったのではないのかと考える。そこで、モリが宿泊先で吉田健一の『時間』を読んでいた事が示唆的に撮られている事に思いを巡らせてみる。
吉田健一は『時間』の中で常に過去と未来を行き来しながら、常に「現在」を意識し、文章を編纂している。そこでは、時間と現実について対比的に論じている箇所がある。
「一般には現実といふのは具体的の反対に我々、或は自分といふもの以外の一切といふ全く一つの正体不明の抽象的な観念でこれには幾つかの属性が宛てがはれてこの観念が冷たいものだつたり固いものだつたりする。」
この吉田の時間についての一節を労働の観点から読み替えしてみたい。冷たく、固いものが雇用形態に則った会社の時間だとしたときに、労働時間という対価が抽象的な観念として描かれており、それも一重に現在性の問題として回収する事はできないのだろうか。こうした個々の時間が描かれながらも、時間の所有者も暗示させる描き方は立体的な時間をこの映画が内包しているともいえる。
モリは日本語を使い、手紙を送っていたクォンは韓国語を使っている所からも、国籍という属性を意識せざるおえない。その時間の差異についても的確に示されるのがホン・サンスの映画であると感じさせる。それは、「夜の浜辺でひとり」で描かれた食卓のシーンでも多言語が行き交っていた。けれども、「自由が丘」とは異なり、少しトーンが異なる描き方をしているのは作風の変化と言えるのだろうか。
「自由が丘で」では、共に別々のカットを行き来しながら、別々の時間の話ではあるけれども、現在の話が楽しげに綴られているのは、ホン・サンスの映画だからだろうか。ここで、「自由が丘」の冒頭を思い浮かべてみたい。シャッフルされた手紙から始まるこの映画からは、毎日、その日の脚本を編むホン・サンスの手つきでさえも感じられる。そう、現在を生きる、会社の事務員が一定の数値を有る基準からエクセルを使ってソートをかける様に。