戦後大分県議会の選挙区定数の変遷

 今回は大分県議会の選挙区定数を取り上げます。九州の東部に位置し、周防灘と豊予海峡に面し、沿岸部は温暖な気候であることが知られています。廃藩置県までは、北部が豊前に属したほかは豊後に属しており、江戸時代には中津、杵築、日出、府内、臼杵、佐伯、岡、森の八藩に分かれていました。そのため現在でも、大分県はまとまりが悪いとも評されています。かつては、農業が産業の中心でしたが、1960年代に大分市が新産業都市に指定されて以降、沿岸部にコンビナートが造成され、各種企業が進出するようになりました。
 そのような大分県ですが、戦後の大分県議会の選挙区定数がどのような変遷をたどったのかを、これから見てゆくことにします。なおこれまで取り上げてきた他の府県と同じように、戦後すぐの1947年選挙はとりあげません。では具体的に分析を進めてゆこう。

 分析の基礎となる地域分けは、中選挙区の1区と2区にします。旧1区は県の中部、南部、西部、旧2区は県の北部と東部にあたります。具体的な市と郡でいえば、旧1区が大分市、日田市、佐伯市、臼杵市、津久見市、竹田市、豊後大野市、由布市、玖珠郡、旧2区が別府市、中津市、豊後高田市、杵築市、宇佐市、国東市、東国東郡、速見郡となります。1951年当時では、旧1区が大分市、臼杵市、佐伯市、日田市、大分郡、北海部郡、南海部郡、大野郡、直入郡、玖珠郡、日田郡、旧2区が別府市、中津市、速見郡、東国東郡、西国東郡、下毛郡、宇佐郡となります。
 まず基本的な事象として、県全体の人口が1970年代、80年代を除いて減少していることと、大分市の人口が周辺市町村との合併ということがあったにせよ増加し続けていることが挙げられます。つまり、県人口に占める大分市の比率が上がっているということです。具体的には、1950年には7.54パーセントであった比率が、2020年には42.32パーセントまでになっています。このことが県議会の定数配分において、問題となってゆきます。
 他の地域の状況はどうだったでしょうか。他の地域では基本的に減少傾向です。具体的には大分市を除く旧1区は1950年には67万人あまりだったものが、1970年47万人、1990年41万人、2020年には29万人あまりとなっています。旧2区は、1950年には49万人弱だったのが、1970年には42万人、1990年に41万人、2020年には35万人と減少しています。 
 ただこの期間、大分市以外の地域が減少一辺倒であたかというと、そうではありません。例えば旧1区では、佐伯市が1970~1980年代、日田市は1980年代に増加しています。旧2区では、別府市が1970年代まで増加し続けたし、中津市は1970年代から増加を続けています。今例として挙げたのはいずれも地域の中核都市ですが、郡部においても増加したところがあります。1970~1980年代にかけて増加した大分郡と速見郡が該当します。また増加し続けるということではないが、一時的に下げ止まったという選挙区も存在します。杵築市と宇佐市が該当します。
 だが他の選挙区では、表の期間は減少し続けた。豊後高田市など国東半島の県東部、津久見市や南海部郡などの県南部、竹田市や玖珠郡などの県西部である。これらの地域はいずれも、農林漁業が産業の中心で、高度経済成長によって産業が衰退し、大都市への人口移動が減少の主な要因として挙げられるであろう。
 ではこのようなバックグラウンドがあることを前提として、本題の県議会の選挙区定数の配分の分析へと移ろう。表を一目見てわかることは、1979年までと、1983年以降では色調が違うことだ。左側の1979年以前は無色、つまり人口比例どおりに定数が配分されていることを意味します。対して右側は、青や赤が目立ちます。赤は定数過多、青は定数過少を表していますので、定数が人口比例通りではなく配分されているということです。
 具体的にみてゆこう。ます大分市の定数が1979年以後13に固定されています。79年は配当基数が12.91で人口比例どおりですが、次の83年では配当基数が14.08となって、定数過少となりました。上述したように大分市の人口は周辺自治体と合併があったにせよ、増加し続けています。その結果、2023年選挙での配当基数は18.2となって、実際の議席数との差は5に拡がっています。
 ではその5議席はどこに配分されたのかといえば、定数過多となっている選挙区です。2023年選挙で該当する選挙区は、由布市、臼杵市、豊後大野市、日田市、宇佐市です。宇佐市を除く選挙区はいずれも人口が減少している地域です。宇佐市のケースは、周辺自治体を合併したことによって、その自治体が属していた選挙区の定数をそのまま増やしたことによって、定数過多になったものです。
 平成の大合併によって選挙区の再編がありましたが、それ以前では、東国東郡、南海部郡、直入郡などが定数過多の状態であり、西国東郡は1983年~2003年の期間、特例選挙区でした。いずれにしても大分市の定数の一部からそれらの選挙区に回すという構図は変わりません。
 読者の皆さんの中には、このような定数配分が許されるのだろうかと思われる方がいらっしゃるかもしれません。この定数配分の根拠となっているのが、公職選挙法第15条第8項である。
 「各選挙区において選挙すべき地方公共団体の議会の議員の数は、人口に比例して、条例で定めなければならない。ただし、特別の事情があるときは、おおむね人口を基準とし、地域間の均衡を考慮して定めることができる」
 この条文は、定数について人口比例によって、決めなければならないと定めている。一方でただし以下の「特別の事情があるときは、おおむね人口を基準とし、地域間の均衡を考慮して定める」となっています。大分県議会の定数配分は、このただし書き以下の条文を根拠としているのです。
 では大分県議会の「特別の事情」とは何か。県議会の報告書に示されていました。
 「大分市に議員が集中することは、市町村合併により市町村議会議員が大きく減少する中、特に周辺部において、地域の声が県政に届きにくくなるとの不安を県民に抱かせることになる。このため、県民の声を公正かつ効果的に県政に反映させるためには、地域の代表を確保する必要がある。(中略)ただし書きを引き続き適用して、大分市の選挙区別定数を5人減らし、その減じた5人を他の選挙区へ配分する(後略)」(大分県議会議員定数問題調査会の報告書 2018年3月)
 大分県の「特別の事情」とは、県議会議員の4割が大分市選出となると、他の地域からの声(意見や要望)が届きにくくなるのではないかと、県民が不安に感じるからだということです。したがって、大分市の定数を配当基数どおりから減らして、他の選挙区に回しているということです。
 もともと1950年の公職選挙法制定時には、第15条の第8項にただし書き以下の文言はありませんでした。この文言が追加されたのは、1969年のことです。当初は、大都市のスプロール現象に対応するためでした。しかし、次第に拡大解釈されて、大都市部以外の府県議会も、この条項を適用するようになりました。
 大分市の議席が配当基数よりも減らされる根拠はこれだけではありません。1990年代からの地方分権改革によって、大分市は権限事務が都道府県並みとなる中核市に指定されました(1997年4月)。これによって、市の行政への県の関与が減少するという理由によって、減らされたまま議席が固定されることになりました。
 こうした措置は1983年の選挙から導入されましたが、折しも1979年に知事に就任した平松守彦が「一村一品運動」を提唱し、過疎地の対策に力を入れ始めた時期でした。これは筆者の推測ですが、そうした雰囲気が、大分市の議席を減らし、他の地域の選挙区に議席を回すということにつながったのかもしれません。
 ただ大分市の市民は、こうした状況をどのように見ているでしょうか。どのくらいの割合かわかりませんが、納得していない市民も確実に存在するでしょう。人口比例どおりに議席を配分するのか、人口の減少している地域に手厚く配分するのか、アメリカ合衆国建国時にも議論があったように、代表制の根本的な問題のひとつです。筆者は、この問題に対して明確な答えを導き出せる自信はありませんが、人口減少地域の政治代表の選出方法は、選挙区定数の配当基数より増やす方法ではなくて、別の方法をとるべきだと指摘して、終わりにします。

(参考文献)
大分県議会事務局編「大分県議会の歩み 第1巻~第12巻」1951年~1997

豊田寛三ほか「大分県の歴史」山川出版社 1997年
大分県議会のウェブサイト
総務省統計局 国勢調査のウェブサイト


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