他の人の中の自分と自分の中の自分
周りの人が、認識する自分。
面白い。明るい。楽しい。
暗い。冷たい。怖い。
他にも、誤解を生じる事は頻繁に起こる。
周りの人は、自分をどう認識しているのか。
自分は一体どう見られているのか。
本当の自分と、周りの人が認識する自分。
その誤差が見えた時。
発動する。
本当の自分を分かって欲しい!!!
これが、発動すると、相手に理解してもらおうとあらゆる方法で自分を表現する。
相手に理解してもらおうと一生懸命になる。
承認欲求とも言えるのかもしれないが、この相手の自分への認識と本当の自分の中の自分を、一致させる事自体そもそも、不可能で、そもそも、必要な事なのだろうか。
自分の中の自分をそのまま表現するのは、とても楽しい。
好奇心のまま、感じたまま、表現する。
自分の中の自分を認識して欲しくて、相手の認識の矛盾を取ろうと、表現するのは少し苦しい。
承認や理解が、見えない限り満足を得られなくなる。
他の人の中の自分と、自分の中の自分を一致させようと思えば思うほど、悩みと苦悩の中にはまり込む。
伝える事も大切だが、一致していない事が不思議な事ではないと知っておくと、とりあえず、伝えてみようくらいに思える。
一致は、不可能と知らずにズレだけを見つめてしまうと、自分で自分を追い込み出して自分さえも自分を認められなくなる。
逆に、こちらの他の人への認識も、自分の憶測や解釈の仕方が入り混じり、本当のその人自体を捉えてはいないと知っていれば、腹を立てる事も減ってくるのではないかと思う。
誤解を解きたくなる、本当の自分を知って欲しくなる。
つい、湧いてくる欲求でもあるが、全体を確実に捉えて認識する事は、不可能だと知っておくと少し楽になる。
分かってあげたいという気持ちさえ持てていれば、矛盾や認識の違いが起きても、誤差があるかもしれないなあと最初から思っていれば、少し寛容になれる気もする。
親子でも、それは、同じだと思う。
全ては捉えられない。
捉えようとし過ぎると過干渉になってしまったり、捉えられると思っているとひどく心配になって来たりする。
全て分かると思う勘違いから、管理出来ると思えてくる様になる。
子供は、好奇心の向く方向に走って行く。
そのまま、表現させてあげるには、その子はその子なりの自分を表現していると見る必要がある。
全てを認識出来ると思っていると、口を出してしまう。管理できると勘違いしてしまう。
人と人は、100%は分かり合えない。
それは、悲しい事ではない。
だからこそ、表現は自由であって、その人の好奇心のままに表現した事は、感動を起こす。
他にも学びを与える。
他の人の自分への認識と、自分自身の自分への認識を、一致させるための表現では、せっかくの表現の目的が外れてしまう。
自分という中から、湧き出した自分を自由に表現してみる事で、少しは他の人にも分かりやすい自分を表に現せるのではないかと思う。
分かってもらえない苦悩の中にいたからこそ、分かり合えない事を何よりも悲しいと思っていた自分を抱え込んでいた時があったからこそ、この思考がわたしを救ってくれた。
人と人は、分かり合えない。
それを、知っているから分かり合える矛盾。