二十歳になった事で、名義変更は出来る、 紙切れにサインと捺印さえして契約すれば 簡単に金は借りられる。 コレに味を占めた小僧は、金が無くなる度に 違う金融会社に駆け込み、 何件も債務を増やして行きました。 "馬鹿につける薬は無い"とはまさにこの時の僕でした。 返す金が無いから借りる。 【雪だるま方式】で借金が増える。 もう負のループ。 今考えたら、何に金を使えばそうなるのか。 全く覚えていない。 この頃はただ遊ぶ金に溶かしていたのでしょう。 ただ、一度だけこの頃 父親から
飲食業に転職(バイトだけど)して なんとか頑張って洗濯機は安い物を買って、 冷蔵庫は貧乏極まれりな僕を案じて大家さんが使っていないのを譲ってくれました。 食べる物は"まかない"でアホみたいに食べて腹を満たす。 若かったので、それこそアホみたいな量を食べてました。 ですが、やはりバイトの身分だと収入は知れたもの。 そんなこんなで、待ちに待った3月の誕生日を迎え、二十歳になりました。 ずっとこの日を待っていた。 借りているアパートの名義をクソ親父から 自分に変える為です。 昔
最初に入ったバー業態で働きたかったのに、 焼肉居酒屋への異動はちょっと残念でしたが、 働いていたメンバーの平均年齢が、 ほぼ自分の年齢のプラマイ2歳くらいが多かったので、すぐに仲良くなれました。 当時の店長も29歳と若く、 とにかく厳しい人だったのを覚えています。 専らホール業務ばかりやっていたので、 接客スキルやトレンチワーク等は、この厳しい店長に叩き込まれました。 今思えば、パワハラ以外の何物でもない "怒鳴る・殴る・蹴る"の暴行もありましたが…笑 僕らの世代までは
TVは愚か、洗濯機や冷蔵庫という生活に於いて必要最低限の家電すら無いので、 それはもう大変。 なので、すぐにバイトを掛け持ち。 この時既に働いていた、 "モテたい願望"だけで始めたアパレルの 【COMME CA DU MODE(コムサデモード)】という仕事だけでは食って行けない。 なので、経験のあるコンビニで深夜〜早朝のバイトを始めまた。 コンビニは廃棄の弁当も食べれるだけ食べられるし、深夜は時給も高い。 なので 朝8時から20時までアパレル
19歳。ある日突然、父親から 『おい、アパート決めてきたから出て行け。』 と一言。 『は?』 そりゃそうだ。突然過ぎる。 『これ以上、お前を息子として置いておけん。 自分の力だけで生きていけ。100年でも帰って来んな。』 (※まだ未成年だったので、父親名義の契約) 『あ、そ。』 大して言葉も交わさず、 荷造りを始める。嬉しかった。 ようやくこのクソみてぇな家を出て行ける! 家具・家電なんか後で考えりゃいい! そんな事しか考えていなかった。 アパートの住所が殴り書き
少々過激な描写があります。 度々、父親と拳を合わせてきたが 年齢と共に力も付いて来て、壮絶な喧嘩にエスカレートしていった。 19歳を目前に控えたある日、 実家にて またも夫婦喧嘩がうるさかったので、ブチギレて怒鳴りながら途中で参加した。 もう父親が悪いとか、母親が悪いとか、 どうでもいい。ブッ殺○てやろうと思っての事だった。 親子3人、激しい罵り合いの末 母親のコメカミにフルスイングでフックを入れてフッ飛ばした。 どうやら意識は飛んだようだ。 死にゃしねーだろ。 父親は
さて、17歳にして"肩書き無職"になった僕は 翌年【通信制高校】に編入しましたが、 すぐに行かなくなり、ひたすらに遊び呆けてました。 親とも更にモメまくり、友達の家を泊まり歩き、帰れば殴られるので、ほぼ家には居ませんでした。 学校を辞めてみると、不思議なモノで 色んな場所で"高校中退者"と出会う機会も増えていきました。 理由はそれぞれ違えど、同じ"仲間"の様な意識が生まれ、学校生活を送っている時より親しい友達が出来たのが楽しかった。 その時出会った友達は皆 『土木』『塗装』『
高校2年生の夏に、 メキシコから交換留学生の女の子がクラスにやって来ました。 名前は"ホアニータ"今でも覚えています。 何故メキシコだったのかは謎です笑 日本語を殆ど理解していない中で、 全ての授業を日本語で受けていたのですから、大変だったと思います。 幼稚園から英語を習っていたという理由だけで、 席を隣にさせられて、出来る限りを英語で通訳的な事をさせられました。 チャラ男?ヤンキー?が留学生にモノを教えてるんだから、何とも滑稽な絵面だったでしょう。 もちろん僕がサボって居
公立高校には落ちましたが、 滑り止めの私立では普通科を受験した際、点数が良かったらしく、特別進学コースに入学するよう、学校側からの薦めでそちらに進む事に。 と言えば聞こえは良いですが、実際の所 ヤンキーの溜まり場みたいな学校だったので、 中学時代落ちこぼれだった僕が特別進学コースに行ける訳ですから、 如何に周りがバカだったかという事でしょう。 何せ、入学当初ひと学年13クラスもあったのに卒業時には9クラスにまで減る学校でしたから笑笑 理由はそれぞれですが、退学者がそれだけ多
またしても小学校に引き続き、冴えない中学校生活を送ってしまった僕は、 勉強もスポーツもこれと言って得意なものも無いまま、いよいよ受験を迫られます。 幼稚園から続けていた、英語だけは なんとかクリアしていたくらい。 髪を染め、万○きをゲーム感覚で行い、制服姿でタバコを吸い、段々と母親に罵詈雑言を浴びせる様になっていた僕に"夢"なんてモノはこれっぽっちもありませんでした。 相変わらず夫婦喧嘩も凄まじい家庭環境でしたが、この頃はそれに参加して両親に殴りかかっていました。 空手の有
小学校では、内気な僕でしたが 入学式から好きな女の子が居ました。 理由は非常に単純なもので、 入学式で隣同士の男子と女子が手を繋いで入場するという入学式でした。 (背の順だったのか、出世番号順だったかは覚えてない。) その時隣になった女の子に恋をした"ぬまざき少年"。 冴えない小学校生活をそのまま送り、 同じ小学校の同級生が9割6分程の確率で同じ中学校に進学します。 顔ぶれはほぼ変わらない。 中学生で思春期を迎えると、皆オシャレに気を遣いだし、僕ももれなくその波に乗ろうとし
自営業ですから、商売が上手くいかなければ 情緒が不安定になるのは 今、この歳になってよく理解出来ます。 だとしても、【犬も喰わない夫婦喧嘩】の度に寝ている僕を叩き起こして、同席させていた事は今でも理解出来ません。 そんな両親にも、勿論良い所はありました。 毎週日曜日には、必ずと言って良いほど 家族でドライブに出掛けていました。 冬になると、ドライブが"スキー"に代わりました。 夏のドライブはアスレチックや、年に一度あるか無いかのビッグイベントの海へカニ釣りへ行ったりしてい
今の僕からは自分でも想像出来ませんが、 子供の頃は"いじめられっ子"でした。 3月の早生まれという事もあり、 同じ年の友達の中でも1番体が小さかったので、小学生まで"背の順"でも毎年1番前を更新。 その為、幼稚園に通っても体が小さく引っ込み思案な僕がイジメ(からかい)のターゲットになるには時間は掛かりませんでした。 体の大きい子に叩かれたり、殴られたりして泣いてばかりでした。 そして、ベソベソ泣いて帰れば今度は父親に 『なんでやり返さないんだ!』と怒られる。 子供にとっては
前回のお話で触れた様に、 僕は【お坊ちゃん】でした。 妹ももれなく【お嬢ちゃん】でした。 でも、それは見栄っ張りな両親が作ったエゴの塊だったと今でも思います。 父親は札幌のススキノ生まれススキノ育ち。 これだけ聞けば、今や言わずと知れた北海道札幌市を代表する繁華街。 煌びやかに聞こえるでしょう。 ですが、"ススキノ"は 本来漢字表記で"薄野"と書きます。 その昔は"薄野原(すすきのはら)"だったから "すすきの"。 要はススキやスゲ等の植物の"茅(かや)"が生い茂っていたか
父親が30歳で母親が36歳の時、 北海道のど真ん中の街で長男として生を受けた。 現代に於いては珍しくもない数字だが、 当時にしてはだいぶ"晩婚"だっただろう。 父方の祖父母からは"初孫(ういまご)"として、 だいぶ可愛がられた。 街の中心部にマンションも買って、車もクラウンのステーションワゴンときた。 子供服は某百貨店の外商付き。 外商付きとは、年間ウン十万・ウン百万単位で使ってくれる"上客"に担当者が付き、 お気に入りのブランドの新作が出ると、 わざわざ百貨店まで行かなく
少しでも興味を持って、 若しくは"なんとなく"でも、このnoteをご覧いただき、ありがとうございます。 先に言います。 これを読んでいただいても、今後の貴方の為には多分成りません。笑笑 でも、今現在"不幸のどん底"みたいな人は ちょっと読んでみて欲しいかも。 役に立つとは思えませんが、 【こんな奴も居るんだ】 と思わせる事が出来たなら、僕のこれまでの人生も少しは浮かばれます。 では、読んでくださるそこの貴方。 お付き合いいただき、ありがとうございます。 ☆ 僕は【その人に