『ムーンエイジ・デイドリーム』はあなたに「ボウイとは何か?」と問いかける
デヴィッド・ボウイを「体験」するための映画
デヴィッド・ボウイのドキュメンタリー映画『ムーンエイジ・デイドリーム』を手掛けたブレット・モーゲン監督は、この映画は一般的なドキュメンタリーとは違い、ボウイのアートや思想を観客が体験するものにしたかったと各所で語っている。
そのため、この映画はアーティストのバイオグラフィ本をそのまま映像に置き換えたような作品とはまったくの別物だ。
『ムーンエイジ・デイドリーム』には、関係者やジャーナリストがボウイについて語るシーンはひとつもなく、ナレーションは生前のボウイの肉声だけで構成されている。
映像の展開は目まぐるしく、コラージュ的な要素が強い。一見ボウイとは関係がなさそうなサイケデリックでシュールレアリスム的な映像も多用されている。
監督が 「日付、名前、情報から解放された、印象派的な映画を作りたかった」と語っているのもよくわかる。この映画では、観客は「理解する」よりも「感じる」ことが求められている。
監督がIMAXでの上映に強くこだわったのも納得だ。IMAXの巨大画面とサラウンド音響が生み出す没入感は、この映画を「感じる」、もしくは体験するのにはぴったりである。
『ムーンエイジ・デイドリーム』と、当事者絶対主義の時代
このような作りの作品であるため、『ムーンエイジ・デイドリーム』は非常に濃密な「デヴィッド・ボウイ体験」を観客にもたらす。
だがそれは裏を返せば、客観性の欠落という問題にもつながる。
先ほども書いたように、この映画には関係者やジャーナリストがボウイについて語るシーンはない。それはつまり、「外側からボウイはどう見えていたのか?」という客観性を意識的に排除しているということである。
この映画は客観性が欠落していて、ボウイの主観だけで構成されている。それは言葉を変えれば、ボウイというアーティスト、あるいは「本人」という究極の当事者の主観を絶対視するということにもなりかねない。
ここで話を現代社会につなげてみる。
SNS以降、ファンダムの声は過剰に増幅されるようになった。その結果、ジャーナリストによるアーティストへの(批判的な)論評は「熱狂的なファンではない”非当事者”による冷笑」と熱狂的なファンから攻撃の的になることが増えている。ときには、アーティスト本人がファンを動員して攻撃することもある。
逆に、現代のファンダムがありがたがるのは、アーティスト本人による発言だ。彼らはそれが絶対的な正解だと考える。彼らはアーティスト本人の発言を錦の御旗として掲げ、それと異なる意見を持つ「冷笑派」を「間違っている」として攻撃する。
『ムーンエイジ・デイドリーム』は、そんな当事者絶対主義の時代に生まれるべくして生まれた作品である――と批判を展開することも可能だ。
しかし残念なことに、その見方はやや浅い。
肯定されるべき監督による「自分語り」
『ムーンエイジ・デイドリーム』は、デヴィッド・ボウイの主観的な視点を濃密に追体験できる作品である。
だが実際に映画を観た人ならば気づいたように、この映画には非常に強い客観性も組み込まれている。それはブレット・モーゲン監督がボウイをどう解釈したのか?という視点だ。
この映画がデヴィッド・ボウイをどのようなアーティストとして見せたいのかは明白だ。
ボウイはすべてのものは永遠ではなく、人生は有限であることに早くから気づいていた。だからボウイは1日たりとも無駄しないで、常に限界を定めず挑戦し、変わり続けるという生き方を選んだ。ボウイはそのキャリアを通して、いつも新しい音楽性、新しいビジュアル、新しい思想を取り込んでいく道を選んだのである、と。
このようなボウイ像は、映画の冒頭と最後で誤解の余地がないほど強調されている。
実際にボウイはそういった人だったのかもしれない。しかしこれは、監督がかなり強くボウイを自分に引き寄せた解釈でもある。
監督は、この映画の製作中に心臓発作を起こし、一週間ほど生死の狭間を彷徨っている。
そのような経験をすると、人生観が変わる人が多い。人はいつか必ず死ぬと実感し、残りの人生を悔いなく生きるようにしようと、大抵の人は誓いを立てる。
おそらく監督もそのように考えたのだろう。だからボウイの膨大なインタビュー映像のアーカイブを精査するなかで、監督はボウイが死生観を語る映像が心に留まり、共感し、その思想を軸として映画を組み立てていこうと思ったのではないだろうか。
そういった意味では、『ムーンエイジ・デイドリーム』はボウイを使ったブレット・モーゲン監督の自分語りである。だがそれでいいのだ。
客観性という罠
ドキュメンタリー映画に関係者やジャーナリストの発言を差し込むと、作品に客観性が生まれ、立体的になる。この手法はドキュメンタリーで長らく使われてきたもので、もちろん意義がある。
だがこういった見方もできる。関係者やジャーナリストの発言は客観的な事実を伝えるものではなく、あくまで彼らによる解釈を披露しているだけだ。
たとえば、ある関係者が映画で「ボウイはこんな人だったんです」と言ったとする。すると、観客は「ああ、そうだったんだ」と納得してしまう。
「ボウイはこんなふうに言っていましたが、本当はこうだったんです」
「ああ、そうだったんだ」
「このアルバムにはこんな意義があるんです」
「ああ、そうだったんだ」
というように。
これは見方によっては、観客の思考(=主体性)を奪う行為である。
関係者やジャーナリストは、彼らの視点から見たデヴィッド・ボウイの解釈を披露しているだけだ。しかし観客はそれを客観的な事実として受け止め、納得してしまう。
一般的なドキュメンタリーには、大なり小なりそういった性質がある。観客に対象への能動的な解釈を促すというより、観客に「わかった」と思わせて、納得させる機能が備わっているのだ。
デヴィッド・ボウイという鏡が映し出すもの
ここでもう一度、『ムーンエイジ・デイドリーム』の構成について考えてみる。
この映画のナレーションは、生前のボウイの肉声だけで構成されている。しかも映像の展開は目まぐるしく、コラージュ的な要素が強い。
それは、観客にデヴィッド・ボウイの主観的な視点を濃密に追体験させるという効果がある。
これは裏を返せば、ドキュメンタリーから意識的に客観性を排除するという行為だ。客観性という答えを与えないので、観客に「わかった」と思わせて、納得させるには、かなり不親切な作りである。
しかしそれこそが、ブレット・モーゲン監督の狙いなのだろう。
『ムーンエイジ・デイドリーム』はボウイの主観をたっぷりと観客に浴びせ、そのまま観客を劇場の外へと放り出す。観客は「わかった」というカタルシスを与えられる代わりに、解釈の余地を存分に与えられている。さあ、ここからは、あなたが「デヴィッド・ボウイとは何だったのか?」を考える番だ、と。
映画の中で、ボウイは「自分は人々の鏡だ」という趣旨の発言をしている。
人はどこまで行っても主観から逃れられない。だから、あなたがボウイを解釈する、ボウイについて考えるとは、あなたがボウイを通して自分自身を知るという行為でもある。ボウイが自分を鏡だと言うのは、おそらくそういう意味だろう。
ブレット・モーゲン監督は、ボウイという鏡を通して自分自身に向き合った。そして、そこで得た考え方を映画に投影させた。
『ムーンエイジ・デイドリーム』に見られる監督のボウイ解釈は、あくまでひとつのサンプルに過ぎない。あなたもこんなふうに自由で大胆にボウイを解釈していいのだ、という。
だから『ムーンエイジ・デイドリーム』を見たあなたは、どんな感想を抱いても構わない。ボウイというアーティストについて、好きなように思いを巡らせればいい。この映画はそのための素材を提供したに過ぎない。解釈はどこまでもあなたに開かれている。