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【不定期連載】落書きの下書き #17
#17. 「休み」は休む日だとは思ってない
今回は #スポ鬱 の感想。というよりも、その中の1節で気になったというか、彼らと自分とは違う考え方っぽいなと感じたことを整理してみようかなと。
note記事での音声は有料ですが、spotifyで無料視聴できるので気になった方はそちらから。この回の後半の方にあった話を抜粋します。
河内「スポーツをやってる/やってないは分からないけど、同世代の人が、会社員だろうが何だろうが働き方は問わないけど、普通に(仕事を)休んでるの。俺、それ、なんなんだろうって思うんだよ。例えば週7日あって2日間フルで休みます、これってすごく良いと思うんだ。なんでかっていうと5日間でパフォーマンスを出せば2日間休んだって良いし、むしろ2日間休んだ方が5日間のパフォーマンスが出せれば総合的に生産性は一緒ですって言うなら全然それで良いと思う。でも、それが出来ない。どう考えても2連休を取ることに慣れてなさ過ぎて。もうサッカーをやっていた時なんて基本的に多くても週1回の休みで生きてきたから、サッカーを辞めたとしてもそのあとサッカーの仕事をしてきたから多くて週1回の休みなわけ。で、どんなに休んで良いって言われても2日間休むかな?って思うの。」
文字にすると最初の方の「なんなんだろう」が非難にも見えそうですが、話のトーンや文脈からは非難というよりも自分とは違う価値観なので興味深いというニュアンスで受け取ってください。
聴きながら思ったこととしては、彼ら(話し手の河内さん、聞き手の井筒さん)が、スポーツをやってたからというよりは、今の仕事が彼らの人生の中心にあると考えているからではないかと思った。
そもそも「仕事」って何なんだろう。現代社会においては「仕事」は「労働」という言葉に言い換えても差し支えないと思うし、労働とは賃金や報酬を得るために活動することを指しているといって良いのではないか。そして、賃金や報酬という形で他者からお金をもらう以上、他者に自分の活動の価値を評価してもらう必要がある。
ろう‐どう〔ラウ‐〕【労働】 の解説
[名](スル)
1 からだを使って働くこと。特に、収入を得る目的で、からだや知能を使って働くこと。「工場で—する」「時間外—」「頭脳—」
2 経済学で、生産に向けられる人間の努力ないし活動。自然に働きかけてこれを変化させ、生産手段や生活手段をつくりだす人間の活動。労働力の使用・消費。
その一方で、「仕事」「労働」との対立関係にあるのは「趣味」。これは自分が好きなことを、自分が好きなようにやることであり、他者からの評価は特に必要がない。あくまでも自分が満足するかどうかの話。
しゅ‐み【趣味】 の解説
1 仕事・職業としてでなく、個人が楽しみとしてしている事柄。「—は読書です」「—と実益を兼ねる」「多—」
2 どういうものに美しさやおもしろさを感じるかという、その人の感覚のあり方。好みの傾向。「—の悪い飾り付け」「少女—」
3 物事のもっている味わい。おもむき。情趣。
「さびた眺望 (ながめ) で、また一種の—が有る」〈二葉亭・浮雲〉
つまり、「仕事」「労働」と「趣味」の対立構造の中身は、前者は他者からの評価が必要なので他律的な要素が強いのに対して、後者は自分が満足するかどうかで評価は自分ですれば良いので自律的な要素が強い、と言えるのではないか。
勿論、スポーツをやってきて、それがそのまま仕事になっている人のように、自分が好きなことを仕事にしている場合には、この対立構造が曖昧、あるいは存在しないように感じられる人も少なからずいると思う。また、世間からも評価をされやすいという分野は少なからずあって、好きなことがそこに上手く乗る人はこの対立構造を意識する必要はないかもしれない。これは「これからの「正義」の話をしよう」で出てきた、マイケルジョーダンが高額な報酬を得られる理由には、バスケットボールの人気が高い時代に生まれたという彼の手柄ではない要素も含まれている、という話とも近い気がする。現代社会におけるスポーツには他者からの評価を得やすい社会的な地位がある。
また、自分がどう思うかにはあまり関心が無くて、他者からの評価を大事にしたいという価値観の人については、そもそも「趣味」というものはないかもしれない。自分が楽しむためではないのなら仕事以外の時間にやっているレジャーや何やは僕は「趣味」とは呼ばないと思っているし、辞書から引用したように趣味は「個人が楽しみとしてしている」というのがポイントだと思うので。となると、そういう人はそもそもこの対立構造すら定義できなさそうだなと思う。(僕に言わせれば芸能人が仕事を得るために取る資格を「趣味でやってます」なんて片腹痛いわ!とすら思う)
こうした「仕事」「労働」と「趣味」の対立構造が曖昧であったり、存在しない人にとっては「休み」というものがあまり理解できないというか、「休み」自体が存在しないのかもしれない。休んでいる間にも仕事に繋がる何かを探していたり、仕事の近接領域にあることをやっているかもしれない。でも、それによって「仕事」の充実度(パフォーマンス)が上がることでその人の生活の満足度が高まるのであればそれはそれで良いと思う。おそらく、河内さんや井筒さんはこちらのタイプなのだろうと聴きながら思った。
一方で、僕はこの対立構造がかなりはっきりしている。就職する段階で好きなことを仕事にしようとは全く思わなかった。好きなことを誰かにとやかく言われたくないという気持ちが強かったし、自分の好きなことを誰かに評価してもらえるとも思っていなかったから、好きかどうかよりも出来そうかどうかで選んだ。
なので、「仕事」「労働」と「趣味」の時間は自分の意識の中でははっきり分かれている。仕事から離れて、自分の好きなことと向き合える、あるいは自分が自分の時間を好きなように使えるような日をきちんと確保したいし、増やしたいと考えている。だからといって仕事を適当にやっているつもりはないし、趣味の中で知ったっ知識や出来るようになったことが仕事に活きる場面があって、そういう時は仕事が楽しくなったりすることもある。
ただ、仕事が自分を覆いつくすような大きさになることは無いし、あくまでも趣味という自分が自分であることを認識していられる時間があった上で、それをやるためのリソースを確保するために時間と体を切り売りしているような感覚な気がしている。
切り売りはちょっと大袈裟だったかもしれないけど、僕の生活において「仕事」「労働」<「趣味」という関係性は揺るがないと思うし、そういう状態を保持できるように頑張っている。この価値観に立って考えた時、「休み」は休む日ではなく自分が好きなことと向き合える日だと思う。だから週休2日では足りないと思っているし、いつ有給休暇を取って仕事から離れる日を増やせるかをいつも探っている。
つまり、対立構造が存在しない人(対立軸になるような趣味が無かったり、他律的で構わないと思っている人)や曖昧な人は、労働時間が含まれない日を「休み」とは呼ぶものの休んでいるという感覚は持ちにくいだろうし、僕のように対立構造がハッキリしていて、その上で「趣味」に重きを置く人はそういう日は「休み」ではなく、むしろそういう日の方が本番だというような感覚になるのではないだろうか。こう考えると誰にとっても「休み」なんてものは存在しないのかもしれない。
僕は自分が好きなことを誰かに評価されることから逃げたいからこそ、好きなことを趣味という枠の中で保護している。好きでやっていることをあれこれ言われるのが怖いから他者の目から守っているという感覚もある。それでも、偶然にも趣味でやっていることが誰かに評価してもらえることはあるし、それはそれでとても嬉しいことなのだけども。
でも、それを目当てにやってしまって他律的な姿勢になってしまうと、好きでやっていたはずなのに途端に自分の楽しさが落ちてしまうことを何度か経験してきたので、やっぱり好きなことは自分が自分で満足することに価値を置く自律的な姿勢でありたいなと思うし、僕にはそれがあっているのだと思う。
そんなことを思いながら金曜日に仕事を休んで3連休にした状態でこれを書いている。