母が永眠した日
母が永眠したのは、もう30年も前になる。
肝臓ガンだった。 感染経路は特定できていないが、おそらく手術の時の輸血が原因でC型肝炎になり、それが父の50歳の人間ドックの際に発覚して、余命5年だか言われたが、入退院を繰り返しながら65の少し前までは生きていてくれた。
とはいうものの、体のダルさや、食事にも気を遣っていたりなどのこともあり、友達付き合いなどは60歳ぐらいからはなかったと思う。
うちは、母と姉と私は、反抗期の頃を除いてはずっと仲がよくて、わたしは母をポップスの歌手のコンサートに連れていったし、姉も仕事が休みの日に母がディズニーランドに行きたい、と言ったら即行で連れていったことがあった。なので、母としては、友達と会わなくても2人の娘がいればそれなりに孤独ではなかったのかもしれない。娘たちは、両方、残業だらけの日々ではあったし、家を出ていたりもしたけれど。
父も定年になっていて、母が入院している時は、毎日、母の見舞いにいっていた。でも、そのせいで同室の入院者に嫌味を言われたこともあったという。嫌味?は?と思うが、「一人身の人もここにはいるのに、あなたのとこは毎日見舞いがくるのを見せびらかして」みたいなことを言われたらしい。
なので、母からは「病室に入る時は、必ず、同室の人にも”こんにちは”と挨拶しなさい」「お菓子とか持ってくるのだったら、同室の人にもおそすわけする分も買ってきなさい」と言われていて、わたしも当時はまだ若かったし、母が長くないことを知っていたので争うこともないと思っていたし、言うとおりにしていた。
自分も数度入院をしたけれど、短期間だったせいか、そこまでの人間関係で煩わしいことはなかったので、今でもピンとこないことは多いが、母は相当不快な目にあったのか、永眠する少し前からは近所の病院に転院して、個室にいた。転院してすぐの頃に、病院内を「探検」しようと思って、歩行器で病室から出て数メートルのところで転び、痣だらけになって、看護婦さんには、探検しようと思いましたとか言えないから、言い訳を必死で考えたんだとか言っていたっけ。
父は、相変わらず、毎日、母の見舞いにいっていて、まあ、個室だから、途中、その場で仮眠などしつつ、朝から夕方まで病院にいて自宅に帰るような生活だったらしい。
父が当時、「かあさんは、帰ろうとすると、なんか用を頼むんだよ。寂しいから帰らないで、って言ってるんだよ。」と言って、父は娘の気持ちは全然わかっちゃいないのに、母のことはよく見ているんだなあ、と驚いたこともあった。
息子も何度か連れていった。息子の声変わりしてない「ばぁばー、またくるね」と言っていた声はなんだか今でも耳の奥に残っている。まだ、「もうすぐ命が終わる」ということなど理解できない頃だった。
ある日、父から電話で、すぐ病院に来るようにと連絡があった。
もうそろそろ危ない、と言われており、父はひそかに葬儀のための写真なども選びはじめていて、わたしはそれがとてもイヤだった。母の寿命がもう尽きるという現実を突きつけられるようで、父が葬儀の話をするたびに怒って席をたってしまっていた。でも、姉は、「次は自分が父の葬儀を出すのだから、一通りは見ておかないと」と、つきあっていた。姉は、本当に姉だ。頭が上がらない。
とにかく、もう、最期なのだと父の声を聞いた瞬間にわかった。息子は、まだ連れていける年ではないので、夫に任せて、一人で病院に向かった。
着いたのはもう夜だったと思う。肝臓のガンが破裂した、みたいな説明を父がしてくれたが、わたしは目の前で、母の体からどんどんと血が排出されていくのを見て茫然とした。ドラマなどで見たことのある光景なだけに、現実のことのような気がしなかった。でも、先生が必死なことだけはよくわかった。
先生が、看護師さんに「輸血!急いで!」と言った時、父が「先生、もう楽にしてやってください」と静かに言い、先生も看護師さんも、娘たちも動きが止まった。おそらく、いろいろな機械の警告音や動作音がたくさんしていた筈なのに、なんだかとても静かだった。
それからは、家族で母の手や足に触れたり、「おかあさん」などと呼び掛けたりして時がすぎた。もう、「頑張って」とは誰も言わなかった。
母の息がとてもゆっくりになり、息を二度吐いて、呼吸が止まった。その息を吐き切った時に、母の目から涙がこぼれた。肝臓が悪かったので、その涙は濃い黄色だった。
臨終の宣言があった。
それから、放心していたのだろうか。少し時間がたってからだったと思う。父が、母を棺に納めるための準備の品(服とか、化粧道具とか)を用意しておくように言って、わたしは姉と家に一旦戻ることになった。
近くの病院とはいえ、歩けば40分ぐらいかかるかもしれない。夜中の2時か3時ぐらいだったか。疲れてもいたし、病院の近くからタクシーを拾った。タクシーの運転手さんは、何も事情を知らないから「女の子2人でこんな時間まで夜遊び?ダメだよー」などと言ったけれど、わたしも姉も説明する気力もなくて、曖昧な顔をして黙っていた。運転手さんは、何かを察したのか、その後は一言も発せず、姉とわたしは家に戻った。
お葬式については、かなりバタバタとしたことがあったけれど、いずれまた、機会があれば書こう。ただ、正直、よく覚えていない。
その後、しばらくは、街で母に似た面影の人を見かけると、「何故、母はもうこの世にいないのに、この人はこうやって元気そうに過ごしているのだろう」などと理不尽な哀しみに囚われたものだった。
息子が大きくなるにつれて、自分がうっすらと思い出した、でもうろ覚えな子供の頃の話を母としたくて、そのたびに泣いてしまった。
それから30年近くがすぎ、首里城が焼失する少し前、訪れたことがあったのだけれど、なんだか、ふっと「あ、ここ、かあさんがきっと好きな場所。来たら喜んだだろうな」と思ったこともあった。
今でも、もっともっと、母のためにできたことがあったのではないかと思ってしまう。
ただ、わたしたちには、もう最後という時間は与えられていたので、母に「産んでくれてありがとう」と言うことはできた。もうめっちゃ恥ずかしかったけれど。母もぽろっと泣いてたけど。
さて、そろそろご飯の支度をしなくては。暑いし、うどんにでもするかな。かあさんから教わった鶏と玉ねぎのつけ汁は息子も大好きだよ。