思考方法の基本と基礎。

https://note.com/yuukee/n/n5af3fa0f56a0

飲みながらnote記事をアレコレ気楽に読んでいて、上の記事を偶然読むことになり、少し考え見ることにした。
私個人としても、いつかは思考世界の概略をまとめながら再勉強しなければとは思っていた、そのため気楽に感想を書き込んでしまった。
書いたものが分散するだけなので、一応ここに溜めて置くことにした。後日添削するつもりだ。

以下からが、投稿書き込みした文書ですが添削してますのでそのものではありません。

本文を読ませてもらいましたが、あなたは「考える」とか「思考」とかの、「考えるとは何か」とかいった基本的な問が生まれる地点にたったようですね。

その点がシッカリ定まらないと、あるいは基盤として固まらないと、考えることを各自それぞれどうぞご勝手に進めて下さいということになります。
こうなると考えてること自体を忘れたり、今まで考えていたこととは別な事や、他のことを自由に考えたり、他の人の考えを移植して自分の考えにしてもいいし、支離滅裂でもいい、といった具合に定まらず、浮き草の様になって漂うだけになります。
頭脳の中は無限大の中空世界であり無限大の空想世界です。肉体が現実界の制約を受けなければ、頭の中は10階のビルから飛び降りても鳥のように飛べるし墜落する事もありません。空腹にもなりません。肉体の五感を無いものと仮定して捨象することもできます。

思考というものがそのような原理を持ちますので、人類はそこで、人間が考えるというのは、自分の目の前の現実界である時空や世界といったモノについて「考えてる」のだと基盤を据えたのです。

確かにそう思って確かめてみると自分というモノだったり他の人のことだったり、社会のことだったり現実界のことなのです。空想も人がやってることなので人のことに含まれます。

こうして確かに私と、対そと(外)側や社会とかについて考え、あるいは人間と世界の関係を考えていることになっているのでしょう。
あるいは人間にとっての世界とは何か、さらにまた世界とは何か、という問を導きだし命題としました。
世界とは何か、という命題です。

そこで多くの人がいう、人間の目の前にアル。モノ。とは何かという命題も生まれました。
アルかナイかの命題も生まれそれを有論といい、
モノは物質論といいます。
(モノの大元は何か?古代ギリシアから水や火や土や原子や数などを挙げて議論を始めました)

唯物論とそれに対抗的にある観念論の命題にもなり、何世紀にも渡り論争する事になりました。今でもふたつの陣営で反目が続いているようにされているのです。
唯物論が観念論を哲学の座から退かせたので、学術的には観念論は哲学とは言わなくなっているはずなのですが、政治的支配層としては観念論を哲学としておきたいため、大学では観念論を信奉してる人を主流にして虚飾しています。

モノの名札(措定)が言葉です。言語学の命題となりました。

この世界は実在してるモノと、それを茫漠と示した言葉で出来ています。
言葉が示しているモノは、言葉の意味としては本当は実在していません。
その証拠に、例えば物理学はモノに特化(専門化)した学問(命題)です。
その素粒子を一般語は示せないのです。示してはいないのです。

石、土、木、空、水、犬猫、鍋釜、人間、男、女、etc、それら言葉のいっさいが、その物とモノの色も形も重さも硬さも、冷たさも、電子、波動、などの物質属性や形質を示してはいないのです。
おおよその物性や形質を措定しているだけなのです。
分かりやすく簡単にいえば、イメージを持っているだけです。
だから私たちは言葉の意味内容を理解しあい、話し合い、コミユニケーションが成り立っているかのように錯覚しているのです。

分かり合っていると仮定しているだけです。

だから上手に思考しようと思ったら、以上の命題の概略を調べ、学習帳にノートして頭に入れておくと基盤が固まります。それを元に確固とした思考が成り立ち、正しい思考方法をとることもできるようになるのでしょう。

現代的で顕著な注意点としてある問題は、主観と客観、主観主義と客観主義、主観哲学と客観哲学も自明にしておかないと、現代思考界の泥沼に足を取られ進めなくなります。
まさに「各自の自由でご勝手に」の問題になります。
現代人は洗脳教育で主観主義的になり、自分中心・自己中心的になっていて、極端な人は自己だけの考えであることの自覚さえなく、みんなと同じように考えてると思い込んでいます。
ナゾナゾ的に命題を上げますと、自分(個人)が居るから社会があるのか、それとも、社会があるから自分(個人)が居るのか?
自分と社会の関係を正しく関係づけて見ましょう。
心理学は社会問題は見ないで、即個人と自分を見ますし、それどころか個人の心理の部分しかし見ません。心の命題だけなのです。
これを読んだ方の中には、貴方の心理学論は主観主義の決め付けで極論だ!と思った方もいるでしょう。
そうして心理学といっても、社会も、他人も自分のことも見て、心理を捉えているのです。
と言うでしょう。
しかし私が言ってるのは、峻別の事です。
分かりやすくいえば、主従関係の話です。
個人と社会の関係で、個人が主で、社会が従なのか、それとも社会が主で個人が従なのか、その話なのです。
現代人は心理学(主義)の洗脳で騙され、「自分の適性はどんなものか」「自分の個性と向き不向きはどんなものか」などと聞かれ、その謀略にハマり、「自分探し」をさせられます。
これにこの洗脳謀略に騙されて、自分を見るよう顔を固定され、自分(個人)探しを始めて社会を見なくなります。
自分を見定められればいいのですから。

こうして自分と社会も見ませんし、自分と社会の主従関係も見ようとはしなくなります。
果たしてこの世の中に社会と無関係、無縁な人間と個人と私しという生き物はいるのでしょうか?
そんな人間は1人も居ません。
生後直後に狼に連れ去られ育てられた人間の赤ちゃんは、人間にはなれません。
人間では無いのです。
純粋生物学的には人間肉体の人間であり人間なのですが、人間の社会科学的必要条件はみたしてないのですから、人間とは言えないのです。

人間社会と無関係だと個人と個体は人間にはなれないのです。
こうして心理学主義洗脳に騙された若者たちや現代人は、自分探しを始めて社会と無関係な自分を作り始めるのです。
人間的自分を殺し始めることになり人間にはなれないのです。
全ての個人は、社会の中に産まれて来るのです。社会があるから、個人が産まれて来れるのです。社会が主であり、個人が従なのです。
日本語という言葉を使う社会があるから、個人が産まれて来て日本語を身に付けられるのです。
日本社会が日本語の1つづつの単語の意味内容を決めて、各赤ん坊と個人はその意味内容に従って思考して、正しく高度な概念も形成する事もできるのです。
心理学と心理学主義に追従せず、人を生かさない方に加担することの無いように、つまり人を活かせない、人を死なせる方向に加担しないように、真剣に当該問題と命題を考えましょう。

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