人間が思考し求めるているモノ=世界・世界認識
noteが私に勧めるnote記事を偶然読んだ話の感想です。
ですから私からの意図があって記事を選び紹介する話ではありません。
しかし私の認識活動ですから全く無意味な話しかといえば、そうではありません。
わかりやすく言えば、多くの方たちがnoteのブログで書いているように、人々が錯覚している社会と人間の現象(現実)を書き写した話しではないということです。
人々は太陽が登れば、おはようと挨拶し合って今日は寒いだと暖かいとか、暑いとか話してる、その人々(社会)の現象をコピー(歪んだ画像)した話ではないということです。
そのようなブログ記事を読むより、小説を読んでいる方がまだマシだということでもあります。
ですから偶然読んだ話しで語られている民主主義、多数決、人間の意思決定とその形態の多様などの問題を、マスメデイア同様の混乱をもとにして、この文が出来ている。
元来なら真実真理を求める態度を貫くなら、それらに挙げられている諸概念の真偽を疑い、日本社会(学術の話しですから世界にも通用するはずの話しでもある)が仕掛けている言葉と意味内容の洗脳を解かないと、統一した解答が出ないのは当然です。
物事を正しく見られずに、したがって正しく考えられずに、その結果正しい結論(印象や感想)を得られないことは当然な帰結です。
つまり現象です。
現象は虚像です。
現実は虚像だからこそ各学問で正像や真実を探求してるのでしょう。
現象に対応する言葉が、その当否や真偽が妥当でなければ、現象は虚像なのです。
現実を正しい言葉と文章に対応させて正しい認識を得る、すこぶる言語学や論理学の命題として古代より提起されているので、私勝手に問題をデッチ上げているのではありません。
因みに、人類や人々が現実(世界)現象を正しく認識するためには、人類が「三者の合一」を獲得しなければならないとされ、一つは哲学がなければならず。
二つめは弁証法を獲得しなければならず。
三つめは、論理学
ですから事物の諸現象の、解答を得る中心的命題が思考方法としての言語学、論理学の手続きとなるでしょう。
さらにそれを支える哲学(世界観)や世界と自然・宇宙を結ぶ原理である、弁証法の素養とその理解が不可欠です。
さらにそれらの真偽や正否を判別したりして、正解等を確信するには歴史学、経済学、政治学の素養理解が必要となるはずです。
それらが無いと統一的に結ぶ真理は獲得できません。
思考と認識の迷宮を徘徊し続け、苦悩(精神的苦痛や病)を解放することはできません。
人間と認識と世界の統一的高次概念を獲得することはできません。
つまり真理を得ることができないのです。
偶然読んだ話し内容の解答を得るためのキーワードは、民主主義は政治的統治概念であり真理とは関係なく、真理獲得のために真偽を分別したり高次概念を抽出したりすることはできない、という点になります。
要は、民主主義は資本主義国家を比較的矛盾なく統治する制度と、その方法でしかないのです。
つまりその場限り(資本主義国家と社会)のウソ話し、作り話しなのです。
社会主義という「その場」には適合しない作り話、ウソ話しの制度なのです。
それらの意味を理解できるのは、国家論政治論をやらないと分からないでしょう。
個人と人間の思考力や認識力が生み出した概念体(イデオロギー)でしかないのです。
抽象的概念体なのです。
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