哲学に問われていること。

(哲学講座№4)
多くの人が誤解しているが、哲学は理屈好きのために理屈を教えるものではない。
哲学は現実を動かす現実的な力を持つため、また生活に密着した諸問題を解決する力を持つために、
今の哲学は資本主義に支配されてしまい、無能な理屈好きな者たちの学問、知的好奇心を満たす「学問」へと変質させられてしまった。

どの国でも時の権力が気に入らない哲学や思想や宗教でさえ、人々を動かす現実的な力を持つからこそ、弾圧されてきたのである。
例を上げて実証するまでもない、誰もが知る事実だ。

だから各大学の「哲学」の大半以上のほとんどが、資本主義と支配者が許容するその様な「哲学」となってしまった。

哲学教師教授になりたければ、それをやらなければ大学助教にも、まして教授にはなれない。

こうして学問の王として哲学は、そうして現代資本主義の哲学は、他の学問と科学を無力化させてしまった。

企業利益に結びつく物理化学など自然管理や生産活動に直結した諸科学は放置した。(当事者の学者技術者などは必ず観念論的になるので構わないのです。)

社会を改善するための理論としての「社会科学」は総崩れとなった。

経済学は、貧困と飢餓を克服し、人々の幸せを与えるための生産・運搬・流通・消費と富の分配(賃金)などではなく、資本本主義の金融だけ、その貨幣流量や操作などだけを扱う「経済学」へと成り下がってしまった。

政治学も「国民のための政治」「国民のためのより良い政治」を実現するための政治学ではなく、さらに国民を幸せにする政治や社会の実現のための政治学でもなく、加えて政治の問題と実態を人々に知らせ普及したり研究する「政治学」ではなくなってしまった。

教育学も、イジメもイジメ自殺問題も真剣に取り組まず止められないで、「私は教育学者です」と平然としていられる醜悪な人間たちがやる「教育学」になってしまった。

子どもたちは学校でも塾でも「勉強」と「教育」を受け、有名幼稚園受験、有名小中高学校受験、大学受験の競争を脅迫される教育制度・教育体制にしてしまった。
習熟度点検テスト、中間テスト、期末デストとテストの点数競争を常にやらされている。
子どもたちの命は細ってしまっている。

法学も全国の公私立大学で教えても、さらに卒業生を毎年輩出しても、その上何十年経っても、検察・裁判所・警察が活動していても、さらに全国の幾百数十万人もの公務員も法に従い正義と公正のために仕事をしているのに、社会正義が実現しないし、人権意識も民主主義意識も高かまらない社会にしなってしまっている。

主権者意識と民主主義は戦後直後より後退させられてきた。
弁護士たちも若年司法関係者の質の劣化を嘆いて見せる。


歴史学はより人間と社会や国家などを長期間見比べ全般化して見るためか、劣化は食い止められている。

「主観的歴史学」などという私の勝手な右翼思想解釈、個人の好き嫌いで歴史解釈していいのだという、保守政党の陰謀アホ理論を一笑して排撃した。

高校歴史教科書の保守極右洗脳陰謀も、各地の教育委員会関係者の常識的知識によって排撃された。
(アメリカはキリスト教教育と天地創造説などもあり、歴史学者各自勝手な主観の歴史説。財界支配層が有名人にした学者が歴史学の第1人者となり、その者の歴史説《学》となる。こうして世界標準に近くして米国歴史学が維持されているなる。)

他の学科は長文になるため、触れないでパス。

電網のあちこちで話し合っている「哲学」もこの手の物がほとんどで、それらの話し合いと論議は無駄だから正当な哲学を多少学んだ人達は参加しない。
(ここのブログプラットフォームでも、話にならない議論以前。経営とその「学」でも、教育「学」でも、法学でも、育児養育でも、異次元なのて話に加われないし加わっても無駄。無駄であると判明している。哲学は認識論=世界をどう捉えるか、という世界認識の学問だから、それらの各学科は世界の細部認識の問題であり、それぞれが研究を進めると、必ずより細部の認識へ入って行き、さらに微細問題認識へ進み入って行き、結局は『世界という全体的実態』とはどんどん離れていき、世界をどう認識するかという主題とは別な方向に進むこととなる。〘それらも哲学が解明していて、大状況へ向う事を上降という概念で示し、小状況から微細問題へ向かう事を下降と言い慣わしている。認識論の認識原理である〙)

電網哲学グループの参加者でも、アホ、右翼保守主義者達の子どもと同水準の「好き嫌い」を判断基準とする主観主義と、好き嫌い基準から卒業した主観主義と、あるいは「哲学」的主観主義の区別が付けられ、知ってる者が、どれほどいるだろう。

悪しき客観主義と正当な客観主義、科学的客観主義などの区別ができる者はどれほど居るだろう。

客観的事実、科学的真実、真理。
原理、原則、法則、摂理、一般、全般、不変、普遍など区別を付けられる者はどれ程いるだろう。

各学問の真理探求と、哲学的真理探求の違いと評価価・値判断ができる者はどれ程いるだろう。

客観的事実と科学的真実や科学論、真実真理論を話し合い学び合うには、それらの基礎的知識が必要なはずだろう。

資本主義各国の支配者が嫌い弾圧している哲学とはなんだろうか、それを現代人全体が知らなければ次代は幕開けしないだろう。

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