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ループする「私」という思考

 たとえば、思考と感情の腸詰めこそが「私」である、という認識から始めてみたとする。

 もちろん物質的に見れば、「私」とは肉と骨を詰めこんだ血袋だ、というほうが正確な気もする。が、その「気がする」という思考を抜きにしては、やはり「私」を捉えたとは言い難いだろうという感情を持て余すことも確かで、なのでここではやはり、思考と感情の腸詰めこそが「私」である、という認識から始めてみる。

 しかしその場合の思考とは一体何だろうか?
 赤ん坊のころの焦点のぼやけた思考は、はたして思考と呼んでいいのか? 俳優が舞台に立つ時、明確な思考を伴う瞬間ばかりであるというふうにはぼくにはとても見えない。彼ら俳優は舞台上のまばゆい光に没して、思考を麻痺させることができるのを知っている。戦場で兵士の腕のなかで銃声が爆ぜる時、しかも、そこかしこでそれらの銃声群が響き合う時、総体としての戦場には思考は「私」として立ち現れているだろうか? 溺れて肺に大量の水を呑みこむ時、人はどこまで「私」であり続けられるのか?

 では感情はどうだろう。
 激情にかられて頭の中がまっしろに溢血した時、ほとばしるその感情は「私」をまだ象っているだろうか? 恐怖や畏れといった、共同体のうちで伝染する類いの感情は、「私」の埒外にこぼれ出ているのだと言えるのではないか? 過去の出来事に端を発していつまでも引きずってしまう感情の残滓は、「私」の内部あるいは表層において発生する単なる幻燈であって、もしくは、どこからともなく湧いてくる黴のようなものであって、つまりは「私」を構成するものではなく、ただ「私」に付随するものに過ぎないのではないか?

 では「私」とは一体何であろうか?

 それは永遠の謎、とうそぶくのは簡単だけれど、それならば、なぜ人は人を演じられるのか、という疑問にぼくは答えられない。「私」に感応せずに人が何かを演じられるというのは、とても信じられないからだ。ぼくらは、少なくとも俳優たちは、「私」とは何かを知っている。知っていながら、それを言葉の鋳型に嵌めこむことができない。

 でも、「知っている」というのはそもそも言葉の鋳型に嵌めこむことを言うのではなかったか? かように、そこかしこで、思考がループする。混線する思考の残響は乱れ、波だち、まるで銃声群のように響き合う。そうして、その響きがまた、「私」の似姿を虚空に照射している。それこそが私だ。


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