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”居場所づくり”は、可能か?ー「欺瞞」と「誤配」の視点から

「居場所づくり」

福祉に関心のある人で、この言葉を聞いたことがないという人は少ないのではないだろうか。

この言葉および概念は、日本では「ひきこもり」状態の若者支援の文脈で出てきたように記憶しているが、いまや貧困支援や高齢者福祉など、「社会参加」やソーシャルキャピタルを享受しにくい当事者を支援する要素として広く福祉全般で聞かれるようになった印象がある。

とりわけ貧困支援業界では、衣食住を確保するといった古典的な支援だけでは、当事者がよりよく生きるためには不十分であるということがよく言われる。
それは、例えば生活保護などを利用して住居や日々の生活費を確保できても、人と関わる機会がないためにふさぎこんでしまい、家から出れなくなってしまうというケースを現場の支援者の多くが痛感しているからでもあるのだろう。

貧困支援を謳う団体の多くが「サロン」や「食事会」といった活動を行っているが、こうしたなかには明確に「居場所づくり事業」という看板を掲げているところも少なくない。

近年の「子ども食堂」について、貧困状態にある子どもとその親への「居場所づくり」が裏テーマだと語る関係者も多い。

「居場所づくり」の不可能性

他方で、筆者もこれまで様々な「居場所づくり」事業に従事してきたが、「居場所」といった極めて質的なものを衣食住などと同じように「保障します」と言ってしまっていいのかについては疑問を抱いてきた。

なぜなら、端的に言えば、「居場所づくり」事業によって当事者に「居場所」を提供できるかどうかは、“運次第”という他ないからだ。

「居場所づくり」が志向される際、安心して過ごすことのできる場所(ハード面)のみが想定されているわけでは勿論ない。むしろ、人が集うことで形成される人間関係(ソフト)に力点が置かれている。

ここに、「居場所づくり」を社会的に「保障する」ということの困難さを指摘できる。
改めて言うまでもなく、人が人と交流することで感じる安心感や心理的効用の多寡は、そこに集う人同士の相性に強く規定される。
いくら主催者側が「ここはあなたの『居場所』です。安心して楽しんでください」と言ったところで、当事者がそのように感じられるかどうかは分からない。

衣食住といった物質的なものであれば、―本人が満足するかどうかは別として―提供すること自体は技術的にさほど難しくないし、家のない人に居宅を提供することで一定の効用が普遍的に生じることもある程度計算ができる。
無論、これは急いで付け加えなければいけないことだが、衣食住といった物質的なものであれ、社会が当事者に提供できるのは「着ること」「食べること」「住むこと」そのものではない。
なぜなら、様々な社会的条件を組合せ実際に何らかの行為を行うのは社会ではなく個人であるからだ。「社会が確実に与えることができるのは良い生活の社会的基礎であって、良い生活そのものではない」(ヌスバウム2005:96)。

衣食住ですら、社会が確実に与えることができるわけではないとなれば、「居場所」という極めて質的なものを「保障」するのはなおさら困難だということが分かるだろう。

“たまたま”ある人の「居場所づくり」に成功したからといって、そこにどの程度の汎用性が期待できるのかは全く分からない。にもかかわらず、それを「事業」として「『居場所づくり』をします」と言ってしまうこと(あるいはそういった名目で寄付を募ること)に、筆者自身、違和感というか、傲慢さのようなものを感じてしまっていたのだ。

しかし、だ。

誰とも話すことができずうつ病などの精神疾患に苦しんでいた人が、「サロン」に顔を出すことで少しずつ元気になる姿や、職を失い生きる意味を見出せなかった人が「料理会」で役割を担ったことで再就職に前向きになり「ここに来てなかったら自殺していたかもしれない」と笑顔で語るのを見る度に、こうした活動が「ある人にとっては確かに『居場所』として機能している」と実感せずにはいられない。
“現場”は、「居場所づくり」の難しさや不可能性と同時に、その可能性についてもまざまざと見せつけてくるのである。

この葛藤にどう折り合いをつけたらよいのか。
結局のところ、「居場所づくり」とは何なのか。

「保障します」というのは無責任な気がするし、
かといって、活動の意義を否定することは難しい程度に「うまくいっているように見えるケース」を多く見てしまっている。

そんなもやもやを抱え続けていた時に手に取ったのが、小松理虔さん(以下、小松)の著書『ただ、そこにいる人たち』だ。

本書は、“障害や国籍、性差、年齢などあらゆる違いを乗り越えて、様々な人が共に生きる社会の実現を、アートを通して目指すNPO法人”「クリエイティブサポートレッツ」(以下、レッツ)を取材した小松が、そこで感じたことや考えたことをまとめたものである。

レッツの活動や、小松と利用者の関わり(奮闘)がユニークに綴られ、「支援とは何か」についての小松なりの考察や「『当事者モデル』と『共事者モデル』」という新しい視座の提案など、非常に読み応えがあったのだが、なかでも「福祉と誤配」の章が本記事のテーマを考えるうえで非常に示唆的だった。

レッツは、障害福祉サービス事業所とシェアハウスが一体となった建物「たけし文化センター連尺町」が拠点となっているのだが、まず、小松が「驚いた」というのが、レッツには「福祉施設ならではのマニュアル」がなく、スタッフも「福祉畑ではない人がとても多い」ことだったという。

スタッフに福祉の専門家以外が従事しているだけではない。
レッツは、素人が障害を持つ利用者と関わるしかけがほどこされている。
それは例えばシェアハウスや「タイムトラベル100時間ツアー」などの企画だ。

レッツ代表の翠さんはこう語る。

「…そこで大事だなと思うのは、彼らの友人をつくることです。福祉関係者ではなく友人です。…私たちもこれからは、友人、知り合いをつくるということを活動としてやっていくつもりです。具体的には、たけし文化センターの3階にゲストハウスをつくります。泊まりに来てもらって、彼らといっしょに過ごしてもらう。…もうすでに、レッツで「タイムトラベル100時間ツアー」というものを企画しています。レッツにきて、彼らとほぼ100時間過ごしてもらうという企画ですが、けっこうたくさんの方に来てもらっています。…参加者のいいところは、興味本位で来ていることです。福祉職ではない。親でもないんです。ふつうの友だちが大事なんです。」

福祉の専門家ではない人間が関わることで、「友人をつくる」。
たしかに理念としてはよく分かるし、こうした試み自体はさほど珍しいものではないだろう。
しかし、代表自ら「あうかどうかは会ってみないとわかりません。ちょっと無理という人もいるはずです」と認めるように、「友人をつくる」ということは、「居場所をつくる」のと同様、人と人の相性という“偶然”に左右される。

であれば、レッツの試みは社会的にはどのように評価しうるのだろうか。

「素人」が居場所になれる?

まず小松は、福祉の人ではない「旅人」が、外出したくてたまらない利用者を外に連れ出したことで、落ち着きを取り戻したエピソードなどを紹介する。そのうえで、レッツで日常的に起こるこうした事象を「偶然性」として次のように説明する。

親ですらどうにもならないこと。施設のスタッフですら対処の難しいこと。本人ですらどうにもならないことを、ふらっとやってきた旅人のテンギョウさんや、福祉の人ではない店員さんが、いとも簡単に飛び越えていってしまう。レッツは、そういう偶然性、エラーのようなできごとを呼び込むために徹底して外に開いている、ということかもしれない。

そして、そうした「偶然性」によって誰かが誰かの居場所になることを「素人が居場所になる」と位置付ける。

…だれがフィットするか、だれが居場所になるかはわからない。そこには障害の有無もない。家族の関係ですらない。福祉施設のスタッフであるか、経験者かどうかも関係がない。だれかがだれかの居場所になれる。その事実が、とても強く心に響いた。

他方、ここまでの話は筆者が冒頭で示した「もやもや」の域を超えない。
結局、「だれかがだれかの居場所になる」というのが「偶然の産物」であるということを確認しているに過ぎないからだ。

「誤配」「エラー」としての福祉

しかし、小松の議論はここで終わらない。
「偶然の産物」としての「居場所」を、思想家である東浩紀が提唱する概念である「誤配」を用いて次のように説明する。

「誤配」という言葉、…あえてぼくなりに解釈すれば、本来届けようと思っていなかった人たちにまちがってメッセージが届いてしまい、それが予期せぬ配達だったがゆえに、そこに新しい解釈や意味が生まれ、問題を解決に導くヒントになる可能性を持ってしまう、というようなことだと解釈している。…福祉の世界では、あなただってだれかの居場所になってしまうという可能性を秘めている。だからこうして「いまは当事者でないだれか」に当事者性の種を蒔いてしまうのだ。その種がなにを実らせるかはわからない。実らないかもしれない。けれど、まだ見ぬ誰かに「誤配」されるのを待っている。…つまり、福祉は「誤配」される。そしてその受信機を、ぼくたちは生まれながらに持ってしまっている。ぼくには、それが希望そのものであるように思えてならない。


本書における小松の議論の面白い点は、ここにある。
それは、福祉の素人が障害者である利用者と関わることで起こり得る化学反応を、躊躇なく「誤配」(≒「エラー」)として説明する点だ。


「偶然の産物」である「居場所づくり」について、「偶然性に委ねるのは無責任ではないか」と専門家であれば、また「真面目」であればあるほど考え込んでしまう。袋小路に自らをおいやってしまう。
ここで小松はまた、東の『哲学の誤配』における次の語りを引用し、「誤配」には「ふまじめさ」が必要であるとも論じている。

人間のやることは、つねに予想外の効果を引き起こします。それに対してぼくたちは責任を取ろうとしなければいけないが、しかしその効果もまたつねに想定外のものだから、すべての責任を取ることはできない。そんな限界を表現しているのが「誤配」という言葉です。これは、ある種の無責任さ、軽薄さ、不真面目さの積極的な捉えなおしでもあります。(中略)無責任であるがゆえにコミュニケーションできるとか、無責任であるがゆえにコミットすることができる、といった「中途半端な実践」の価値を積極的に定義する必要があると考えました。

こうした小松や東の議論は、筆者が冒頭で示した「もやもや」あるいは「居場所づくりの限界」について、単に「限界」と切り捨てるのとは異なる視座を提供してくれているように思われる。

なるほど。「専門家」であれ「素人」であれ、「だれかの居場所」を確実に保障するということはできない。
だからこそ、筆者のように、「居場所づくり」を事業として掲げることに居心地の悪さを感じる関係者がいることは不思議ではない―というより、ある意味しごく真っ当な問題意識だと言える―と思う。
しかし、繰り返しになるが、「居場所づくり」を目標にした事業や試みが、参加者にとってポジティブな効果を持ちうることも現場の人間は肌で感じてもいる。

保障はできないが、生じうる効果としての「居場所」。

であれば、その偶発性も含めて肯定的に捉え直せばよいのではないか。
考えてみれば、福祉が「保障」を志向する「健康で文化的な生活」は、これを構成する要素の一つひとつもまた、「誤配」という偶発性に規定されているのではないか。

例えば、「居宅」。

私たちは、家を失った方に生活保護などを通じて住居を保障できるが、この時社会が提供しているのは「住居」というハード面の分配であっても、その利用者が「住居」から得るものは単に「雨露をしのげる」ということだけではないかもしれない。路上に晒されていた方にとっては「安心して過ごせる空間」はそれ自体が重要な「居場所」になりうる。人としての「尊厳」、自信を取り戻すということにもなるかもしれない。

衣食住といったハード面として捉えられがちな要素であっても、そこに「誤配」はつきものだということだ。
そういった「誤配」は保障することこそできないが、「目標」に据える、「分配の射程として志向する」ことはできる。

つまり、「居場所」そのものを確実に保障することはできないという意味では、「居場所づくりをします」というのは欺瞞であるという印象を抱かざるを得ないが、「『居場所』という『誤配』あるいは『エラー』が生じやすくする環境づくりをします」ということは言いうるし、言っていいのではないだろうか。

「居場所づくりなど偶然にすぎない」と言われたら、「偶然にすぎないけれど、偶然を生み出す『仕掛け』も社会のなかにあって良いのではないでしょうか?」という応答もあっていい。
そういう「無責任であるがゆえに行なえた実践」によって、生きる希望を見出せた人も確かにいるのだから。

本書を読んで、長年の「もやもや」が少し晴れたような気がした。


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永井悠大
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