ねはんさんについて

観覧車に乗っていた。ねはんさんが乗りたいと言ったのだ。異性と2人きり、観覧車というシチュエーションは十分色っぽいのだが、わたしたちの間にはそのような空気は流れていなかった。ただ乗っていた。ねはんさんは観覧車から見える外の景色を面白そうに眺めていたように思う。わたしはそんなねはんさんを見ていた。
痩身で、無邪気にくしゃりと顔に皺を寄せて笑う青年。ねはんさんとの初対面でのことだった。

ねはんさんとはTwitterで知り合い、そのときはお互い東京に住んでいたので、何度か一緒に過ごした。その頃の彼は、いきなりホストを始めたり、文芸誌を作ろうと人を集めたり、わたしの目にはあまりにふわふわと危なっかしく映った。その後、彼は東京を去る。わたしは少し安堵していた。ねはんさんは地に足をつけるべきなのだと思った。
東京での彼との思い出が希薄なのは、わたしが常に抗不安薬を多量に服用していたからなのかもしれない。わたしこそ、地に足をつけなければならなかった。

ねはんさんと知り合ってからもう、6年くらいになるらしい。その間にねはんさんは入院したり、地元に戻ったり、わたしも同じく入院したり、地元に戻ったり。ねはんさんとは、未だに平均すると月に2、3回くらい電話越しに話している。

ねはんさんは、どんなときも純粋だ。純粋に現実に苦しんで、悩んで、やっと道筋を決めたと思ったらそれを思いとどまったり。純粋に、人間くさいひとだ。ねはんさんの好きな人のプレゼントを一緒に探したこともある。ねはんさんの好きな人へのアプローチの仕方を一緒に考えたこともある。
ねはんさんはどんなときも正直だ。ありのままの、むき出しの、はたからみたら醜いとすら思われる感情も、正直な言葉で紡ぐ。時に痛々しいほどに、時に驚くほど図太く。ねはんさんは正直に、もがいている。正直に、ものを書いている。正直に、生きていこうとしている。

そんなねはんさんの言葉を電話越しに聞くたびに、観覧車に乗ったことを思い出す。

ねはんさんは純粋に、正直に、観覧車に乗っていた。ただ、それだけのことに、わたしは圧倒されていたのだ。

もう一度ねはんさんと観覧車に乗りたいなと、思う。そのときはわたしも純粋に、正直に、観覧車の椅子に腰掛けよう。

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