祖父のこと

 祖父はとても物静かな人だ。祖母は何かと口煩いタイプなので、その静かで穏やかなさまはひときわ際立っている。祖父が怒っているところを見たことがない。若い頃からまじめに働き続け、退職した後もシルバー派遣をやっていた。ただ毎晩一杯の焼酎を飲み、1番風呂に入り、なんだかんだ祖母が布団に入るのを待ち、自分も眠る。
 祖父の若い頃の写真を見たことがある。正真正銘のハンサムであった。今年米寿を迎えた祖父だが、背が高い。ただ、バイクの事故で顔を怪我したことがあるため、現在、顔の造形は少々崩れてしまっている。
 わたしは幼い頃から、祖父が大好きだった。しずかで、会話などしなくても気まずくならず、よく懐いていたのだと思う。たまに買ってくれるドーナツが大好きだった。祖父も、わたしのことを最も溺愛していた。〇〇ちゃんが1番だ、とよく口にしていた。
 そんな祖父は、最近髭が剃れなくなった。T字の剃刀が難しいのか、と思い、電動のシェーバーを買ってみたのだが、うまく使いこなせない。伸びた髭に、電動のシェーバーで悪戦苦闘している祖父を見ていたら、自然とわたしがやってあげようか、という言葉が出てきた。
 祖父の髭を剃る。痛くないか?など確かめながら、おそるおそる剃る。祖父から香る加齢臭も、なぜだか苦痛に感じなかった。わたしが髭を剃っている間、祖父は何も喋らなかったし、わたしも何も喋らなかった。祖父とごく近い距離で接するのは久しぶりのことであったけれど、祖父の近くは心地いいと思った。
 自分で髭を剃ることができなくなった祖父は、きっとこれからいろんなことができなくなっていくんだろう。祖父はそんなことに苛立ちもせず、ただ1人で、悪戦苦闘するのだろう。
 そんなとき、わたしがやってあげようか、と言えたらいいなと思った。髭を剃り終わって、綺麗になった口元を嬉しそうな顔で確かめる祖父を見ると思う。祖父ができなくなることを、わたしがやってあげれば、祖父は喜んでくれる。純粋に祖父のことが大好きだから、喜んだ顔が見たいのだ。
 もう、この先いつまでそばにいることができるのかは分からない。老人はちょっとしたことで、体調を崩すし、それが大病になって、死んでしまう。あと何回、祖父の髭を剃ることができるのだろう。
 静かで、穏やかで、不器用で、実直な祖父を尊敬している。大好きだ。わたしが幼かったならば、祖父と結婚したいと言ったかもしれない。
 なるべく健康で、穏やかに、長生きしてくれることを祈っている。

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