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とある鑑賞者への追憶—光と闇に架ける橋—


フェルメールの『窓辺で手紙を読む女』。
この絵が「修復」されたいきさつを簡単にまとめておこう。

1979年に行われたX線調査で、絵の女性の背後の壁に、キューピッドが描かれた画中画が飾られており、画中画は絵が完成したあとに塗りつぶされたということまでが分かっていた。
以来、この絵の修正を行なったのはフェルメール本人であると考えられていた。

2017年の専門家会議、そして調査の結果、画中画の上塗りはフェルメールの死後に行われたことが明らかになった。つまりこの絵の修正を行なったのはフェルメール本人ではない。画中画の上塗りを取り除き、フェルメール本人が描いた絵を修復するプロジェクトが、このとき動き出した。

2022年3月11日。

僕の進行方向正面の壁に、修復をおえた『窓辺で手紙を読む女』が佇んでいる。光に招かれて歩みを進めると、あらわれた左側の壁に、修復前の同作品の複製画がかかっていた。

修復後の絵画の前には人だかりができていた。平日の昼下がりにどこからこんなにたくさんの人が……それはまあいい。
さすがに僕も見たいので、ちょっと空いたタイミングを見計らっては、ちょくちょく修復後の絵に近づいてみた。しかし時間としては、結果的に修復前の複製画の方を長く見つめることになってしまった。

いや、なってしまった、なんて言う必要があるだろうか。僕はそんな風に思ってはいないのに。やはり僕のような人間が絵の感想を語るとすれば、それは自分の感じたことや考えたことに対して、正直に向き合うしかない。さもなければ、この文章は誰にとっても無意味なものとなるだろう。

さて、話を戻そう。

修復前→修復後
before→after

と、このように絵を並べられたのなら、さらにこの『窓辺で手紙を読む女』が修復されたいきさつを知っている者ならなおのこと、並べられた2枚の絵について、

偽→真

という見方をするだろう。実際に、人だかりができていたのは修復後の絵の方であり、あの空間で僕は、気がつけば一人、ぽつんと修復前の絵と向かい合っていることさえあった。

だが、その見方は本当に正しいのだろうか。

ところで、
真の方が本当は偽なのではないかという発想は、危険な思想だろうか。考えているだけなら特に問題はないが、おこなってしまったら、それはやはりテロと呼ばれてしまうだろう。テロとは具体的に何なのか。たとえば絵の場合なら、自らの手で他者が描き上げた真実を塗り替えてしまおうとすることだ。

…僕も今、危険な思考を展開しようとしているのかもしれない。まあしかし、やはり考えているだけなら特に問題はないと思う。ならばいま僕は、少なくとも、それを考えてしまう者として、キューピッドの画中画を隠し、絵を塗り替えてしまった誰かの側に立って、この絵を眺めてみたい。

修復前と修復後の絵において、大きな違いは2つあると思う。

まず、全体的な色調が違う。
修復前の方は、薄ぼんやりとした、暮れなずむ光のような黄色。
修復後の方は、鮮やかで、眩いばかりの白。

これもまた彼の者の手が加えられた結果なのか、それとも単に絵の具が経年変化でそうなっただけなのか、よく分からなかった。展覧会のどこかに書いてあっただろうか。情報を見落としたかもしれない。

つぎに、なんといっても大きな違いは、
修復前の絵では、女性の背後の壁には何もないのに対し、
修復後の絵では、壁にキューピッドの画中画がかかっていることだ。

愛の神キューピッドが、力強く足元の仮面を踏みつけている。このキューピッドの画中画が「愛の、偽りに対する勝利」を意味しているというのは分かりやすい。
ただ、この絵の中心である女性の顔を見ると、それほど分かりやすい表情はしていない。もはやそこからどんな感情も読み取れないように慎重を期して描かれた、という印象さえ受けた。開かれた窓にうつる表情の影まで覗きこんでみようとしたが、やはり答えはなかった。

今思えば、僕の先入観がこのとき絵の見方を狭めてしまっていた。冷静になって考えてみると、顔がいつも表情をもって、その人の感情を表しているとは限らない。たとえば、何かに没頭しているとき、何かに衝撃を受けたとき、そこに感情がついてこないとしてもなんら不思議ではない。この『窓辺で手紙を読む女』も、そのような一瞬を切り取った場面なのかもしれない。

それはさておくとしても、画中画のはっきりとした寓意と、女性のはっきりしない表情との関係についてどう考えるかという問題は残っている。もしかすると彼は、この二つの表現の乖離に戸惑い、狂乱の中で絵に手をかけてしまったのだろうか…キューピッドの絵を隠し、はっきりしないもの(女性の顔)だけを残せば、少なくとも戸惑いは消え去る……いや、結論を出すのはまだ早い。

寓意と表情の関係については、このように答えることができる。寓意がはっきりしているからこそ表情を曖昧に書くことができるのだ、と。鑑賞者は手紙を読む女性の表情からは、その内容を、ひいてはこの絵が何を表したものなのか、読み取ることはできない。しかし背後のキューピッドとその寓意に気付いたとき、光が差すように、絵の全体が表すものが理解される。そして光を手にした者にのみ、手紙を読む女性が歓喜に打ちひしがれる幻が現出する……
女性の表情をそれと分かるように、たとえば嬉しそうに涙を流して描いたとしたら、この絵の複雑な構想も、芸術家の技量も、このような鑑賞者の体験も、すべてが無に帰してしまうだろう。

見事だ。

まったくもって、この絵が高度な芸術表現であることは疑いをいれない。

しかし、
と僕は思ってしまう。

あるいはこんなことを思うのは、僕がいま考えていることに引きづられすぎているのかもしれない。あるいは独りで見つめ続けたことで「この絵」に感化されてしまったのか。

しかし、
絵の中に絵を解釈する答えがあるというのは、それがいかに高度なものであろうと、一種のゲームにすぎないのではないか。
神様の作り出した正解に辿り着けるか否か——絵画とは闇雲にそんなことを問うているだけなのか?

絵画の中に一つの真実をもたらしてしまうキューピッドを排除することで、手紙を読む女の解釈を鑑賞者に向けて解き放つ。それこそが、この絵の本当の価値であり、真に自由な、芸術のあるべき姿ではないか。

正解を、といって悪ければ少なくとも正解があることを、学んでから答え合わせをするかの如くに絵を見ることに疑問を感じていた僕にとって、その考えは痛切に響いた。

その考え? …いったい、誰の考えだというのか。分からない。分かるのは、僕はその人物に会ったことはない、ということだけだ。

だがその人物はもしかしたら、作者の死後にキューピッドを塗りつぶした人物かもしれない。
あるいは後輩とランチをしたあとに、ついでのように美術館を訪れ、あげくバスに間に合わないからという勝手な理由で、その後輩を置き去りにした、奇妙な男だったのかもしれない。

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