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旅人の宿りせむ野に霜降らば 我が子羽ぐくめ天の鶴群
旅人の宿(やど)りせむ野に霜降らば
我が子羽ぐくめ天(あめ)の鶴群(たずむら)
あの旅人が宿をとる野に霜が降りるようなら、天をゆく鶴の群れよ、どうかその羽で我が子をくるみ、温めてやっておくれ。
遣唐使の母
おりしも雪の日に、母からのLINEが届いた。
今度また荷物と一緒に無印のカレーを送るから、前送ったものの中で美味しかったものがあれば教えてくれ、とのこと。
無印のカレーはタッパーに移すのが面倒なので(パッケージのままレンジで温められない)、送るなら別のカレーにしてくれ、と返信しかけて、すんでのところで飲み込んだ。カレーは飲みものだ。べつにタッパーに移すくらい造作もないのだし、余計なことを言って母を悲しませるくらいなら、それくらいやってもいいんじゃないか、と思い直したのである。そんな配慮がはたらくあたり、僕はもう、すっかり大人になっていた。
あるいは母にとっての息子は、いつまでも幼い、子どものままなのだろうか。
かつて国の命で異国へ遣わされる遣唐使となった我が子を、旅人と呼びかけ、見送った母の歌にも、その心が通っていたのだと思う。旅は行き、そして、帰ってくるものだからだ。
さらにこの母は、そんな感覚に自覚的ですらあったのかもしれない。歌の終わり、この場面での「はぐくめ」という言葉の選択は、それくらい奇跡的で、心が震えた。まるでほんとうに、言の葉が天から降ってきたんじゃないかと思いたくなる。育むことと、羽でくるむこと。二つの姿が、所作が、ここで一つの思いのもとに重なりあう。鶴がその羽を合わせるように、あるいはどこかの母が、両手で子を抱きかかえるように。
僕のためにカレーを包んでくれた母も、あるいはそんな気持ちでいてくれたのだろうか。