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わが妻はいたく恋いらし飲む水に影さえ見えて世に忘られず 若倭部身麻呂

妻はいたく恋をしているようだ。
私が飲む水に影になってまで現れ、
とても忘れられない。

万葉集

飲む水に影さえ見えて。この表現がとても斬新で印象に残った。
その印象からして、てっきり詠み人が恋をしているのかと思いきや、よく見ると「恋らし」の主語は「わが妻」で、またしても衝撃を受ける。ナルシストなのだろうか…。
いや、ナルシストなら水の鏡に写る影は自分のはず。やはり彼は、妻を愛していたのだ。現に、後半の「世に忘られず」の主語は彼だと読めるようになっている。

それにしても、水に写った影を見たとき、それは相手が自分を思っているのか、それとも自分が相手を思っているのか、どっちなのだろう。

「わが妻はいたく恋らし」と詠んでいることからして、昔の人は一般にこれを前者と捉えるのかもしれない。しかし、後半でほとんどシームレスに主語を反転させている身麻呂には、それはけっきょく自分が相手を思っているからだ、という認識もあったに違いない。
とはいえ、どちらと断言できるものではないし、前者が迷信で、後者が冷静な分析だと言ってみたところで、あまり意味はないような気がする。そもそも恋じたいが迷信のようなもので、人はその迷信をこそ生きるのだから。だから、

飲む水に影さえ見えて。

このフレーズを水の鏡面のようにして、前半と後半で主語が入れ替わるように詠んだ身麻呂の歌の構造そのものにこそ、本当の斬新さが宿ったのかもしれない。

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