七色のポエジー(書きとめておきたい古今東西の詩句)
第428回 己六才より物の形状を写の癖ありて(葛飾北斎)
己六才より物の形状を写の癖ありて半百の此より数々画図を顕すといへども七十年前画く所は実に取るに足ものなし七十三才にして稍(やや)禽獣虫魚の骨格草木の出生を悟し得たり
(私は6歳のときから物を写生することを始め、50歳から多くの絵を描いてきたが、70歳以前のものは取るに足りない。73歳になってようやく動植物の骨格や生態が分かるようになった)
ヨーロッパを席巻したジャポニスムの源流、葛飾北斎(本名は川村時太郎、1760~1849)の画集『富嶽百景』跋文の前半。73歳を過ぎた1834年に初編が刊行された。画家としての自己の履歴を振り返る。
北斎は江戸の本所で生まれた。4歳で鏡磨師の中島伊勢の養子になる。しかし、家業の鏡磨師を継がず、12歳のころ家を出て貸本屋の丁稚になった。14歳で木版彫刻師の徒弟になり、木版印刷の技術を習得した。19歳のとき、絵師をめざし、勝川春章に弟子入りする。
春章はただちに北斎の素質を見抜き、勝川春朗の画号を与えた。そして黄表紙や洒落本の挿絵や肉筆の美人画・風景画などを描かせる。その間、北斎の関心は浮世絵にとどまらず、司馬江漢の西洋画や狩野派・土佐派の画風も学んだ。
1793年、春章が亡くなり、北斎は勝川派を離れる。1795年に北斎は琳派に加わり、「三代目俵屋宗理」を襲名。さかんに美人画を描いた。細面ですらりとした美女の絵は、〝宗理美人〟と呼ばれ、評判になった。