七色のポエジー(書きとめておきたい古今東西の詩句)
第395回 痴愚神礼讃(エラスムス)
Sed quid ego hæc tibi patron tam fingulari, ut caufas etiam non optimas, optime tamen tueri proffis ? Vale, difertiffime More, & Morim tuam gnaviter defende.
(しかし、取るに足りない事件でも完璧に弁護して下さる貴君のような弁論に長けた方に対し、こんなに長々と言い訳を述べる必要がありましょうか? では、ご機嫌よう、世にも優れた弁論の士、モアさん。あなたの「痴愚神」を力いっぱい弁護して下さい)
ルネサンス期の人文主義者、エラスムス(Desiderius Erasmus, 1466~1536)の『痴愚神礼讃(Stultitiae Laus)』のトマス・モアへの献辞から。エラスムスは本書が世に出たら、八方から攻撃の矢が飛んでくることを予め覚悟している。その批判に備え、献辞のなかで、<文筆家たる者は常に、一般の人間を俎上にのせて罰せられることなくからかう自由を認められてきた>と論じる。
エラスムスはロッテルダムで高名な司祭の私生児として生まれた。10代で両親を失くし、寄宿学校で生活する。20歳を前に修道院の門を叩き、そこでラテン語の古典を読み漁る。20代半ばでパリ大学に入り、神学を学んだ。
30歳のころ、パリでラテン語の家庭教師をした縁で英国に渡り、トマス・モアや後のヘンリー8世と知遇を得る。その頃、『古典名句集』を発表し、名声が高まった。
エラスムスは1509年、親友となったモアのもとで1週間ほど滞在した間に『痴愚神礼讃』を書き上げた。支配層を風刺する同書は1511年に発売されると、ヨーロッパ各国で破格のベストセラーとなる。