「死ぬこと以外カスリ傷」の本当の意味
※ こちらは個人の見解です。ご了承の上、お読みください。
※ 画像はCanvaにて作成したものになります。
私は今まで、人生に絶望したことがあります。
「絶望」というと、とても大げさに感じるでしょうか。
もしくは「いやいや、絶望したなら何で生きてるの?」と思う方もいるかもしれませんね。
詳しい内容や経緯はさておき、私が絶望の体験を乗り越えられたのは、単に周りの人が助けてくれたからです。
それがなければ、放浪してその辺で死んでいるか、もしくは生きていくことを諦めていたでしょう。
「心のないお人形さんになりたい」
これは、その当時の私の口癖でした。
もう何も感じたくなくて、ただ言われるがまま存在する、そんな生き物になっていたのです。
それから立ち直れたのは、正直に言うと
「もういつ死んでもいいや」と吹っ切れたからでした。
いつ死んでもいいやと思えるようになったことで、前に進めるようになったのです。
…矛盾していると思いますか?
もうどうなってもいいと割り切ると、今まで我慢していたことに手を伸ばす勇気が湧いてきます。
なぜなら、「いつ自分の人生が終わってもいいように、やれることをやり尽くそう」と考えられるようになるからです。
毎日同じ日々が続いていると、
「明日でいいや」
「また次の機会があるだろう」
と、つい先延ばしにしてしまいます。
あるいは、
「失敗したら恥ずかしい」
「周りに変な目で見られたらどうしよう」
と、傷つくことを恐れて一歩踏み出せなくなってしまいます。
「いつ死んでもいいや」と人生に開き直ることで、
「いつ死んでもいいように生きる」ことに目を向けられました。
だって、自分の人生ですからね。
失敗することや、無知で恥ずかしい思いをすることもあるでしょう。
しかし、それは「カスリ傷」なのです。
「失敗は誰でもする」
「知らないものは聞けばいい」
そう思えたら、随分と気が楽になりませんか?
今こうしてnoteを書いているのも、
そうしたチャレンジの証の一つ。
自分の言葉を世にさらけ出すことに対して、勇気を持つことができたからです。
「いつ死んでもいいや」と、死に対して身を投げ出せたからこそ、今の私は恐れずチャレンジできているのだと思います。
仕事で休みを取ることに引け目を感じることもなく、
単身アニメイトに乗り込むことも怖がらず、
noteやXで自分の創作を披露することも恐れず、
WORDSで誰かのために知識を役立てることも厭わなくなりました。
いつの日か知人に、
「やりたいことに追われ続ける人生でありたい」
と話したことがあります。
そのままの意味で、
自分の人生をやりたいことに使い続けられる生き方をしたい、
自分の人生をもっと有意義に使いたいんです。
やらない後悔より、やって後悔。
人間死んでしまえば何もかも終わりです。
だったら、カスリ傷だらけになりながら、前に進んで成長していく。
だからこそ『今』チャレンジしていくんです。
私は今日も、カスリ傷を作りながら生きていきます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。