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冷笑、死骸、勝ち組遺伝子、〜令和イキ告派に対する態度表明〜
「ー敗地に塗れたからといって、それがどうしたというのだ?すべてが失われたわけではない」
本表明はカヤマ氏(@KayamahTAN )の運営する自動記述アカウント〈ふわふわ地獄〉(@fuwafuwa_jigoku )にて提唱された文芸運動「令和イキ告派」に対して、私が立ち回れる範囲での態度を現し世に示すためのものである。昨今の潮流、つまり掲題に掲げた冷笑で片付けてしまうこともできるが、あえて私は筆をとり礼賛と批判に満ちたテクストでもって世に問いただすべきことがあると考える。つまるところ我々はどうしてこれほど口が聞けない木偶の坊に成り下がったのか、ということである。
「令和イキ告派」の定義は下記による。
令和イキ告派
→相互合意=マッチングにまみれた現代社会において、「愛の加害性」「コミュニケーションの愚行権」を積極的に擁護する文芸運動
続いて、そもそもの「イキ告」自体の定義は下記による。
「イキ告」とは、「いきなり告白」の略で、事前の十分な交流や準備なしに突然好意を伝える行為を指すインターネットスラングである。この言葉は、特に恋愛関係において使用され、相手の気持ちや関係性を確認する前に急に告白することを意味する。
旧来に見られた合コンやナンパ、あるいは同じ共同体の中での関係から出会い発露しその後内面を抉っていく形から、昨今の恋愛市場はバーチャルもっともインターネットを介して、そこへ掲げられている表層に過ぎないプロフィールによって他者を吟味し、個々の尺度によって他人を選別していく形に変化している。これはコロナ禍を経てさらに加速しているといえる。前者に見られる偶然性、あるいは突発性、長い関係から蓄積される好意はなく、ただただ相性という観点が非常に優位に立つ世の中になった。だいいちマッチングアプリなどというものを入れ、その選別争奪戦の渦中に入った時点で偶然性というものはなく、恋愛をするという目的が先に立ち現れていく。旧来の思っても見ない瞬間に現れる感情といった未知の感覚はある程度選別の渦中に泡とかしていく。持って回った構造の中で、工場のベルトコンベアように、フォード式に恋愛が生産されていくのである。決まりきった技術さえあればでっち上げられていく関係である。テクニックはマニュアル化され、そのレールの上を外れないように男性は女性にアプローチを企てる。一方女性は何十何百も詰め寄られるため対応に追われる。その構図の中で選別が強いられていく。強い優れた雄だけが選ばれる。劣等種の雄はハナから返事すら頂戴できないのである。だが逆に全く相手にされない女性もいる。明らかに魅力的に見えない者は女性の方にもいる。筆者は以前なかば冷やかしなかば性的関係者を物色しようと件の大手アプリの闘争の中に入り込んだことがあるが、他人からの承認が数値化されている。あからさまに数字で表現され、プロフのその人物像に付加価値をつけるかの如く3桁や4桁の数字が並ぶ。血眼になって雌を求め群がった男たちの数である。共通してそうした女性は写真写りが良い。一方で脂ぎった太々しい顔をした女が映るプロフには良くて二桁ほどしか数字がついていない。カヤマ氏の指摘する相互合意というのから発展してしまうが、周知の通り世間はルッキズムと承認欲求に塗れたものになっているのである。今筆者が冷やかし程度にマッチングアプリを入れた経緯にしても、容姿に関して数値化されている実情を挙げたのも、このバイアスがかかっている。トドみたいな女にメッセージ送るためにいいねなんかしない。残酷だがそういう価値観が、たとえ一端の道徳を持っていたとしてもどこか綺麗事とでも思っているのか、本能では逆らえない。雄にとってはそうした人間とそういう関係になろうとするのは妥協であり敗北なのである。樽のような腹をした女にしがみつくようにして肉厚な皮膚に揉まれながらなんとかして陰茎を挿入したいだろうか?ごぼうのようにひ弱な女を街へ市中連れ回したいだろうか?結局のところ人々のわがままが明らかに、そう明らかに野晒しになる世の中なのである。
ここまで上げた実情を進化心理学といった潮流が冷笑と分析を重ねている輩がいるがここでは標的とせず(むしろ残念なことに筆者もこの潮流の洗礼を受けてしまっており、いわゆるインセルといった人間たちを馬鹿にしつつ、一方で優れた遺伝子を得たいがために社会生活に必要不可欠な信用を棄て托卵を試みる膣バグ女もまた軽蔑する)そのアンチテーゼとして「愛の加害性」もしくは「コミュニケーションの愚行権」と言った語彙を持ち寄って立ち向かおうとしたカヤマ氏の姿勢は評価されるべきである。前述のレールを外れ、自らの感情を発話し、ぶつける。昨今はあまりにも傷つくことがタブーと言ったほど、強い言葉を扱うことこそ弱い者がすることだと言った風潮がある。大いに結構なことだが、いわば誰もが傷つくことを恐れて自身を抑圧するようになった、恐れず立ち向かい敗残することが嘲笑の標的にされている。この敗残さえも良しとしようという考えなのである。当たって砕けろ。いわば告白道場の如く、いきなり感極まって告白することを容認しようというのである。
前述にもあるように本音を言いづらい世の中である。お前ら読者もこんなくどくどした文章を読みながらも、誰々のおっぱいを揉みたいだとか誰々の股の下を舐めまわしたいだとか考えているのだろうが令和イキ告派はそれさえも容認するのだろうか、それは「愛の加害性」であり、愛ゆえにおっぱいを揉みしだきたいわけだし股の下をグテングテンになるまで舐めまわしたいわけなんだから、せいぜい貴様らの猿みたいな脳みそを許容してくれるこの派閥をもっと世に知らしめ、この抑圧をぶち破り、至る所でおっぱいを揉むべきなのだろう。だが果たしてそれで良いのだろうか?「コミニュケーションの愚行」と「愛の加害性」は両立しうるのだろうか。愛の加害性、それは問答無用に完膚なきまでに好意を盾に胸を揉んだり股の下を揉みしだくわけではない。愛とは見返りなく与えるものだというが、胸を揉むことは何かを与えているのだろうか、不快感を与えている。自分の飛び出している部分を果てしなく揉まれ続けてそこに愛情を感じるのか、愛情とはその人の欠けたものに漬け込むことだ。何が欠けているのか何を欠けたものと定義するのかは人それぞれだ。
於是、問其妹伊邪那美命曰「汝身者、如何成。」 答曰「吾身者、成成不成合處一處在。」 爾伊邪那岐命詔「我身者、成成而成餘處一處在。故以此吾身成餘處、刺塞汝身不成合處而、以爲生成國土、生奈何。」 伊邪那美命答曰「然善。」
日本神話の中では国産みの義がイザナギとイザナミが性交渉して日本列島が生まれたなんでキショい話があるのだが、欠けたものが必ずしも子宮というわけではない。出っ張ったものが満たされているとも限らない。元来、成長期に自身の身体からやたらと伸びていく部位、あるいは膨らんでいく身体をみながら、自分の身に起こる変容に動揺と不安を抱き、他人の目を恐れるがあまりどこか何か自分の一部が崩れ去るような気持ちには誰もがならなかっただろうか。そうした突起ばかりを見つめ男はいずれも満たされないのかと嘆いたのではないだろうか。
愛の加害性、愛を加えることへの害、つまりはその副産物を容認することなのだろうか、私はイキ告派を礼賛するところはいかにもこの項目なのだ。愛は待ち受けるのではなく、与えるものである。見返りもなく、ただただ発射され続ける。ぶつけられ続けることに意義があり、それを賞賛し続けるということだ。昨今の冷笑系に代表されるスタンスというのはそうしたパッションに満ちた動向を否定し続けている。冷笑はニヒリズムが庶民化した姿、日常化した姿なのだろうが、金銭的だけでなく、精神的にも我々は貧しくなっていると言える。誰かを想う気持ちよりも誰かを否定する気持ちの方が容易に作り出せてしまう。触れる、触れることさえが現代において価値のあるものになりつつある。肯定にも否定にもである。凹凸にこそ価値が秀でているのである。社会規範からはみ出た目立ちものに目がいく。数値の高いものに目がいく。平均平凡の中にいたいくせにそうしたはみ出ものに憧れと嘲笑の目がいく。はみ出すことを恐れ、否定し、自らの立場を安全なものにしようとする。
告白というのはそうした規範からはみ出すためのツールだということになる。いま筆者こうしてイキ告派を礼賛しているのも筆者がフォロワーとの歓談の場で異性のつむじを嗅ぐ嗜好があると話すことも告白である。
文芸の世界の定義にはなるが告白というのは近代文学の発展の中で内面を発見していき私小説といったジャンルを生み出していった概念である。
告白という形式、あるいは告白という制度が、告白さるべき内面、あるいは「真の自己」なるものを産出するのだ。問題は何をいかにして告白するかではなく、この告白という制度そのものにある。隠すべきことがあって告白するのではない。告白するという義務が、隠すべきことを、あるいは「内面」を作り出す。
規範の中に収まる人々は、内面を持ち得ることはなく先導者によって煽られ、風向きを変える根無草になってしまった。与えられた嗜好を嗜み、推し活などという金を積むだけの機械に成り下がっているのである。あるいは用意されたシナリオの中で相互合意し、結合を待ち侘びるような者もいる。非常に「もの的」であり、そこに情動という天秤はない。上記の引用を経由すれば、イキ告派というのは情動に全振りし、情動に全てを委ねるということである。それは非理性的な野卑とも言われかねない蛮行でさえも、許容されうるだろう、コミニュケーションの愚行として。性交渉を究極のコミュニケーションと定義する一群があるとする、彼らが告白として、交渉を強要する、つまり相手の気持ちや関係性を確認する前に、こちらには好意があるからということで、強姦まがいに襲うとする。筆者は強姦にいたる情動が単なる性欲のコントロールができない者の蛮行に過ぎないと考えているが、それが実害で実行されるのと自慰行為において意中の異性をぐちゃぐちゃにするのと、あるいは二次元キャラクターをアラレもなくぐちゃぐちゃに犯す絵を描くのと大差ないと考えている。故に、「イキ告」とはほとんど広義の強姦に過ぎない。
筆者が「令和イキ告派」において憤りを感じているのはここである。つまり「相手の気持ちや関係性を確認する前に、こちらには好意があるからということで」というイキ告の定義上の性質である。イキ告派は暴力である。イキ告という定義も、イキ告という蔑称も、イキ告という行為においても、いずれも暴力である。筆者は令和イキ告派の定義を彼に提唱された際、デリダの概説本で読んだ「根源的な超越論的暴力」を思い起こした。
他者について思考したり、語ったりするとき、また他者を経験し、他者と関係するだけでも、必ず他者を自同者の運動に巻き込まざるをえないということ、現象学や存在への問いが語っているこの必然性は、デリダによれば「倫理(学)以前の暴力」であり、「他者との関係の還元不可能な暴力」であり、「根源的な超越論的暴力」なのである。
この辺りの文章を読み返していくとわかることだが、言葉が扱われる、例えば定義づけがされる、名付けられることさえも暴力であり、他者とその言葉が交わされることさえも暴力であるという極端な理屈が展開されていたと思う(筆者はこのあまりにも暴力的な読みをして魅了されてしまった口ではある)のだが、そうしたコミニュケーションにおいて、「広義の強姦」を令和イキ告派は容認するのだろうか。この文章という礫をカヤマ氏にぶつけていくことがまた一つ暴力に過ぎない、あるいは「広義の強姦」として「令和イキ告派」の押し売りに対しての反撃となりうるのか、正直自信はない。少なくともイキ告にありうる衝動性は、のらりくらりの思考の残滓たるこのテクストを見て貰えば、明確性を捨ててまでして回避できたかに思える。問題意識として、あるいは態度表明としては「広義の強姦」はコミュニケーションの愚行権として擁護されうるのかということである。少女を手籠にする議員もいれば、不倫で干された俳優が山に籠って歳下の胸の大きな元女優を孕ませたりもする。後者には「広義の強姦」はないだろうが、「令和イキ告派」の根幹たる「告白」に対して我々には耐久性能を持ち得ているのか、あるいはその告白に目的があるのか、その目的は擁護されうるのか、筆者はこのテクストで問いを出しておきたい。東出に対して敗北を感じるなら初めに引用した失楽園の一節を思い出してもらいたい。きっと東出は勝ち組遺伝子のプレイヤーなのだろうが。
我々にはいずれにせよどこかに凹みがある。誰も避けられない問題である。カヤマ氏ひとりに突きつけられた問いではない。今おっぱいを揉みたいなと思って読んでいる貴様も、今このテクストを書いている筆者も、明日の生活に怯えるあなたも、意中の異性のことが頭から離れない君も、その問題のひとりである。