HALOのはなし 第1話「てろてろって誰だよ」
<はじめに>
どうも、てろてろと申します。
皆様のサポートのおかげでこの長寿シリーズ「HALOのはなし」もついに第1話を迎える運びとなりました。
そもそも、筆者のてろてろってどんな人?って読者の方が当社比97割だと推察いたしますので、まずは私のバックグラウンドについてスキあらば自分語りしていこうと思います。
<プロパティ>
・Team Fanatics所属(2022/1現在)
・2013年~2022年HALO日本王者
・社畜なりかけマン
・抹茶すこ
上記の属性について少し補足等を連ねたいと思います。
・Team Fanatics所属
この記事をポチポチしている2022/1現在では、私はHALOチーム「Fanatics(ファナティックス)」に所属しています。メンバーは基本的に私がピックアップし裏の参謀として働いております。チームの表の顔は、多方面に顔の効くVEX((誰だよ))に協力してもらい、いい感じに取り繕っています。
・2013年~2022年HALO日本王者
なかなかデカい事書くじゃねぇか・・・と感じる人も多いでしょうが、
実は事実です。私がFnatic(s)として出場した国内大会は全て優勝しています。(フラグになるから引退するかな)
以下、実績。※()内はシリーズタイトル
-2013年_Red Bull 5G 2013(HALO4)
-2013年_AGC2013FINAL STAGE(HALO4)
-2016_Halo Japan Championship 2016(HALO5)
※1v1および4v4の2冠
-2022_TS Halo Infinite 4v4 Tournament Vol.1(HALO INFINITE)
という感じです。期間の割に大会には出てませんが、焦点を合わせた大会はそれなりに準備していました。また、HALO5からHALO INFINITEまでの間は特にHALOを触ってない期間がありました。その時期は他のFPS(後述)とか、PCプラットフォームに手を伸ばして知見を広めたり、いろんな人脈を形成したりしていました。
・社畜なりかけマン
この属性は一旦趣味としてのゲームとは別の、リアル生活のものになります。2022年現在社会人5年目の若造であり、この1月に転職を経験しています。
1~4年目までは大手日本企業でネットワークのSE(システムエンジニア)を経験し、5年目からは大手外資企業にて引き続きSEをのこのこと続けています。
学生時代のように無限にゲームをしていた環境からは身を引き、企業からサラリーを掴み取る日々なので趣味に避ける時間が少なくなってきました。
なので早くHALO名誉顧問としてコーチにジョブチェンジしたい今日このごろ。
・抹茶すこ
抹茶っていいよね(断定)。甘味とかの選択肢に抹茶があると絶対に釣られクマ。
<てろてろの由来>
私のゲーマータグの由来(どうでもいい)については、諸説あります。その中でも有力視されているのが「昔のゲーム、名前が4文字しか入れられない問題」に一石を投じたとある事件です。
申し遅れましたが、わたくし"オガワ_ケンタロウ"と申します。80~90年代のファミコンゲームの多くは文字制限がキツく、しばしば4 or5文字での入力が必須となっていました。ヤングでナウい今のZ世代の方々の共感は得られないと思いますが、当時は自身のアバターにアイデンティティを吹き込むのさえ難しい構造となっておりました。
推敲の末「ケンタロ」、「オガケン」、「オガワケ」など、戦々恐々たるニックネームに踊らされていた私に命を吹き込んだのは、かの有名なスーパー殴る兄弟複数形デルーセでした。
忘れもしない友人F宅での遊戯。集中砲火を受けると無言でコントローラーを抜線するというH/Wチートを嬉々として乱用してくる彼の兄とともに大乱闘に勤しんでいたある時、私は自分のニックネームをランダムに変更できる機能がそこにあったのを発見した。数十回のガチャの末、「てろてろ」という4文字とともに電流が私の脳を駆け抜けた。
"これだ!!!"
このとき「てろてろ」は地上に降誕し、それ以来私はてろてろとしてのペルソナを身に纏い、じゃんけんでは常に「チョキ✌」を出し続けている。
要は4文字以下のニックネームが欲しくてランダムに文字列を生成していたら、いい感じのがあったので採用したって話です。ちなみにカタカナで「テロテロ」って記載はマジで許せん。だって字面がてろてろしてないやん。
<HALOとのなれそめ>
私とHALOの邂逅は20年前に遡る。そのころは今のようにネットもさして発達しておらず、ゲーム情報の最先端はファミ通だったし、FPSの希望の光はゴールデンアイ007だったし、僕はモーションセンサ爆弾を部屋の入口に敷き詰めて立て籠もるだけのキルデス厨として名を馳せていた。そのような時代になぜてろてろ少年はHALOを知り得たのだろうか?我々はその謎を解き明かすべくジャングルの奥(ry
・間違って買っちゃったよ
結果から言うとミスでした。当時アクションゲームの「鬼武者」にゴリゴリにハマっていた私は、ファミ通で鬼武者の続編がXBOXで出るという最新情報を入手した。その年のクリスマスには、世界中で不法侵入を繰り返しては無償で経済を回し続ける3択ロース御仁にXBOXという黒くて重いなにかを発注し、浮かれていた私はファミ通の続報にて真理を悟った。
"いや続編じゃなくてリマスター版やん"
ゲハ論などという大人の肥溜めのような世界を知らなかった純粋無垢なてろてろ少年は、家にあるドス黒い漬物石を放置するわけにも行かず、どうにかシイタケに切れ込みを入れるべく友人F(またか)とトイザらスのゲームコーナーへと足を運んだ。昔の地方のおもちゃ屋は資金があるくせに今ほどコンテンツにあふれていなかったので、ガンプラもアマゾン倉庫並みに潤っていたし、ソフトの充実さに欠けるXBOXにも十分な試遊スペースを割くことができた。
そこにあったのが何を隠そう「HALO_CE(初代HALO)」であった。前任者が少し進めていたおかげで、運良く広大なHALOの世界を楽しめる第2面から体験することができた私とFに2度目の稲妻が襲来した。
"おもろいやん(食い気味)"
そこでの体験は強烈で、あまりの面白さに私はその場で友人Fに500円の負債を発行しつつも念願のソフトを手に入れ、帰路についたのであった。
・オンライン沼
HALOに出会ってからは、地元の友達と協力プレイを嗜んでいた私だが、当時のHALOの最大キャンペーンプレイ可能人数は2人まで。当然死んだら交代のルールが大正義だった地元コミュニティの中で、いかに死なないかをMOTTOとして私のHALO人生は年輪を重ねていった。もしかして今の立ち回りの基礎はこの頃の協力プレイにあったのかもしれない。ありがとう友人K、そしていつも危ないところは先行させてすまない友人T。。。
HALO2が発売されてからも懲りずにHALOをプレイしていた私。ある日友人F(0日ぶり3度目)宅に泊まり込みで遊びに行った。風呂の浴槽から座禅で脱出するゲーム、TVリモコンや食器やドミノなどの小物で作成するピタゴラスイッチ、時オカを息子から強奪し1日でクリアしたF父好みのベチャベチャ白米込の夕御飯などのタスクを済ませ、実家のような安心感でディスプレイに対面した私が見たHALOの画面は見知らぬモノであった。
画面では分割プレイしていないのに自走するチーフ、聞いたことのない言語。これがXbox-Liveとの出会いであった。目に見えぬ人間の意図が集約された場を共有するという臨場感。またもや雷槌に打たれた私は、すぐさま共有カスタム部屋を作成し、Fと共に名も知らぬ外国人参加者をチーミングでボコボコにしていた。言語はわからなかったが、外人の去り際に吐いたあのセリフはきっと呪詛だったのだろう。反省はしていない。
<競技シーンに興味を持った経緯>
ここでは、クソガキてろてろが如何にしてHALO競技シーンに興味を持ったかについての経緯を覚えている範囲で叙述して行こうと思います。と言っても、特に深い話はないので思い出話でも・・・
・のらりくらり(HALO3時代)
私が自分のタグでオンラインHALO界に参入したのはHALO3がリリースされてからでした。とは言いつつ、HALO仲間が友人Fしかいなかった私は、とりあえず当時Fが所属していたゆるふわクラン「全日本マングース同好会/ぐらぐらグラント隊」に所属しました。そのクランは本当に幅広い層の方が所属していて、私の入隊時点でHALO3の最高ランクであるジェネラルに到達していたcaptureさんや、しばらくランクに連れて行ってもらいdoochanやvexを引き合わせてくれたKOORIさんが在籍していたのを覚えています。
当時の私のプレイスタイルは正にトロールで、クランの名に恥じないように、ヴァルハラ(INFINITEのベヒーモスみたいなマップ)で一生マングースを乗り回して遊んだり、ランクマッチで相手との対面時に屈伸だけして世界平和を提唱し、マッチに謎の緊張感を導入していたりしていました。
HALO3は歴代HALOシリーズの中でもずば抜けてオンライン人口が多かった作品であり、私も若く無差別にフレンド登録や招待を送っていたのもあり、なかなかいろいろな人とプレイしていた記憶があります。
そんな中でランクがジェネラルになったり、そのころよくプレイしていたHikiさんやkiwiさんに連れられていわゆる上級者カスタムに参加させてもらったりもしていました。ランクが上がってくると、もっと上手いプレイをしたいと思ったりするもので、更にMLG(Major League Gaming・・・season毎にfeatureされるタイトルが変わる。採用されたタイトルは所謂ホットなゲームってことだぜ)にしばらくHALOが採用されていたこともあり、MLGの大会の試合を見てやべーって思っていた記憶があります。余談ですが、当時は配信プラットフォームが今のように整っておらず、プロのプレイを見るには大会の動画を見るか、もしくはHALO3のシアター共有システムを使って海外のプロのシアターに敏いフレンドのフォルダを定期的にwatchするくらいしか方法はありませんでした。いい時代になったものですね。
そんな時、私も競技クランに誘っていただいて一緒に大会に出ないかと打診されました。ただ少し考えて私はその申し出を断りました。理由は「色んな人と自由にプレイがしたいから」というものでした。当時のわたしの競技クランに対するイメージは"いつも同じ面子でやるために時間になったら集合してる"、"勝ち負けに固執していて色んな楽しみ方ができなくなる"といったものでした。確かにHALO3の時代は人口も多く、どんなプレイリストも人が溢れていたし、カスタム部屋やその種類(ガチなものから、レース/かくれんぼ/サバゲー/SASUKEなど)も豊富で、一つの遊び方に突出するのが怖かったのだと思います。今考えれば贅沢な悩みですね。。。
・自分いいっすか?(HALO REACH時代)
そんなこんなでHALO REACHが発売され、てろてろはマイソウルフレンドmaiyazuと共にソーシャルスレイヤー(INFINITEでいうチームスレイヤー)やRYOくん(superじゃない方)とビッグチームを荒らして回っていました。MLGでのHALOは続いていましたが、スプリントやブルーム、なんか無敵になるアビリティの導入などで界隈をザワつかせており、更にそのタイミングでCでoのDなゲームがヒットしたこともあり日本のトップ層は一時限界村落状態になります。
そんな中、当時MLGルールをよく一緒にプレイしていたGK7・klanny・TetraのMLG3銃士に囲まれてチームを組まないかと打診されました。デジャヴかと思いましたが、REACHではコミュニティの活発さが3とは大きく異なり、また上位層も浮気中でしたので「これは自分でもいけるのでは?」と邪な考えが頭をよぎり、遂にてろてろは競技シーンへと足を踏み入れたのでした。
(補足:そういえば、初めてきっちり国内タイトル取ったときのメンバーって初めのINTENTメンバーにクリソツだったんだね。GK7・・・・)
色々書きましたが、結論としては(HALO下り坂の)タイミングが合ったというものでした。まぁ競技クランに入ったからと言って、それまでの人間関係がリセットされたり、周りから特別視されるようなことも無かったので自分が気にしすぎていたというのが大きいのかな。
<他のシューティングゲームとか>
以上はてろてろがHALOの競技シーンに足を踏み入れてしまった顛末について赤裸々に綴ったものなのですが、てろてろは今に至るまでHALO以外にも色々とFPSを齧っておりましたので、思い出程度に書き残しておきたいと思います。
・CoD(AW/Bo3)
-CoD AW
HALO4が落ち着いてちょっと違うタイトルに手を出してみようと思った最初のIP。Zephyrさんとかに引っ付いて当時のXBOX大手クラン「PLaY」にお邪魔しました。キルタイムがHALOに比べてメチャクチャ短く、ブーストジャンプなる新要素もあってクリッピーなプレイが生まれやすく、所謂爆破ルールも初めてだったので研究のしがいがあり熱中した。シーンの途中でPSから競合クラン「Qu4d」が殴り込んできて切磋琢磨した思い出。プレイスタイルが似たようなWinredとは同じチームになるとゲームが破壊されてしまうので、混合では常に別チームにさせられていた。今のチームメイトであるGreedzくんとチームメイトだったのもこの時。
-CoD Bo3
HALO5が落ち着いて以下略。たまたまSIE(このときはSCEか)が公式に全国学生対抗大会を企画してくださっていたのを見て、学内募集から凸。凸した段階では2日ほどしかプレイしておらず、「交流戦のマップがわからないから後ろから見ときます」という理由だけでARを持った。予選の配信で鈴木ノリアキに認知されていて少し嬉しかったのを覚えている。決勝大会に向けてのプロモーションで、大学チームロゴやプロモーション動画の撮影などを行っていただき、企業の力をまざまざと見せつけられた。
・destiny
全てを超える()。HALOの故郷Bungieの開発と言うこともあってHALOプレイヤーと楽しむ予定だったが箱は即過疎。単身PSに乗り込み、なんと2chのレイド募集スレで引っかかった人物からのツテでクランに入隊。驚くべきクラメンの廃人度合いからMMOとFPSのマッチングはヤバいと確信した。PvPもなかなかに奥が深く、ult有りのFPSはこれが初体験だった。最後の記憶は「鷹の爪最強卍」
・OverWatch
MOBA+FPSというこの世で最も恐ろしい組み合わせ。直前にSMITEというMOBA(ガチ)+TPSな神(が暴れまわる)ゲーもリリースされた。日本のありとあらゆるFPSゲーマーをグラビトンサージで集め、さまざまなプロチームや名だたるストリーマーを輩出した真の神ゲー。てろてろはHALO出身者チームの「MentaL Break」チームに所属し基本サブタグでPS界隈を荒らしていた。クラン出身者には、今ではAPEXプロプレイヤーのPinotrや、e-sportsキャスターを務めるLyzefelt(Rush_Greedzも)を世に送り出し(たことにしており)、あらゆる面でe-sports登竜門のクランであったことは世に隠し難い。
まだ逃げてないことにしておく。
・PC環境
HALO_MCCも落ち着き、HALO INFINITEがPCプラットフォームでも展開されると知るやいなや「キーマウも知らないとあかんでしょう!」ということで以下のタイトルなどをプレイ。結局INFINITEはPADなんだけどね。
-PUBG
初めてのキーマウ体験。初回のプレイはフラフラとパラシュートで海に突貫し、浮上キーがわからず無事溺死した。唯一出場したDMM主催のプロ・アマ混合の大規模大会は荒れに荒れ、その時の順位「PUBG日本31~33位(おぼろげ)だから!」はMentaL BreaKのバトロワ戦績を象徴する言葉となっている。名言は
「(パラシュート)開いていい??(届く?)」
-Fortnite
その圧倒的なカジュアルさ、豊富なプラットフォーム、できる運営開発と3拍子揃ってヒットしないわけがなかったゲーム。私は割とすぐ身を引いたが、職場の後輩はいつまでもプレイしていてやっぱり人気なんだなーと実感した。パラシュートを開いてからの可動範囲が広く、名言を聴く頻度は減ってしまった。
-APEX
配信文化のおかげで予想以上に日本でブレイクしたタイトル。初期の頃はスキルベースのマッチングではなく、大会は「野良の試合に潜ってどれだけキルしたかを競う」というヤンキーなルールが採用されていた。遂にパラシュートが撤廃され、クラメンの心境を慮ると如何ともし難かったが、なぜか
「開いていい?」
とコールアウトする頻度はPUBGを軽く凌駕していた。こわい。
-VARORANT
ついにチャイナが本気を出してきたタイトル。キャラクター性と本格爆破ゲーを融和させたゲームで、何より強烈なアンチチートシステムを搭載しているのがとってもユーザフレンドリー(さすがチート大国)。去年の途中くらいから転職関係でリアルが忙しかったので触れていないが、またやりたい。
<おわりに>
やはりおっさんともなると過去の記憶の積み立てが分厚く、相当な文章量を書き連ねてしまった。もちろん反省はしていない。
次回以降はしっかりとゲームに立ち入った話をする(つもりな)ので、
どうぞよろしくおねがいします。