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【備忘録 一頁目】フジロック・コンプレックス打破の夏

「本日、お荷物をお届けいたします」

先日、配送業者から届いたメール通知を見て、「あぁ、いよいよもうすぐだ、」と実感した。送り元はチケットぴあ。心当たりは一つしかなかった。


今夏、生まれてはじめてフジロックへ行く。


という取るに足らない出来事ですが、私にとっては夏の野外フェスに行くこと、さらにはフジロックというもはや私的音楽の聖地と呼べる場所に行くというのは大きい出来事なので、備忘録として残しておきたいと思う。誰のためでもない自分のためのnoteです。

3月末にチケットを取って、ああだこうだしているうちにもう7月。はじめてのことだし準備から思い出作りのためにnoteに残そう、なんて頭の隅で考えていたはずが、結局当月になってようやく書きはじめるという。noteで何かを書くたびに再確認しているのですが、やはり私は日記みたいなものが向かない人間のようです。


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「フジロックに行ったことがない」と言うとき、ちょっとした引け目みたいなものを感じていた。自分が好きだと公言しているアーティストの9割はフジロックに出演していて、いわば自分の趣味における聖地。ゆえに「意外だね」と言われるたび「そんなに好きって言ってるのに行かないんだね」と足りないところを刺されている気がして、勝手に引け目を感じていた。


これまでフジロックへ行けずにいた理由はふたつ。夏の野外であることと、遠い場所であるということ。フジロックに行き悩む人の大半がぶつかる壁に、もれなくぶつかっていた。

小学生の頃から染みついた出不精精神は健在で、夏になればここぞとばかりに活動が減る。それはそれは動かない。岸辺露伴よりも動かない。フェスに慣れていないどころか、夏にすら慣れていない。そして自分を信用していないという理由から自動車免許を所有せず生きてきてしまったので、移動の選択肢はバス/新幹線のみ。1日参加しようにも、チケット代を含めて単純計算で最低5万はかかる。

トリまで楽しめば家まで、さらには都心部までも帰れないという環境と、やはり秘境というイメージに対する「準備をしなきゃ」という気持ち的ハードル。サマーソニックに比べてしまうとチケットを買う以外の課題が多くて、個人的な金銭感覚においてもうーんと悩んできたのが正直なところ。


といっても所詮は言い訳で、「フジロックという楽しみのために体力をつけてお金を使おう」というモチベーションが今まで足りなかったというだけに過ぎない。その自負はあるのです。だからこそ頭の中で再生される「そんなに好きって言ってるのに行かないんだね」という言葉が、思い込みが、事実が痛いところに刺さっては抜けずにいた。(別にそんなことは誰も思っていない、という意見はひとまず目を瞑っていただきたい)


現地を知っている人と知らない人では、話が噛み合わないことが出てくる。環境的なものだとか、体感的なものだとか。そして音楽への興味や愛の度合いを、“フジロック”で測られたこともしばしば。一時は「仕事以外で行ってやるもんか」と勝手な啖呵を切っていたのですが、そのご縁も自ら遠ざけることがあり、結局は同じ状況が続くのみ。ネガティブは堂々巡り。「フジロックへ行ったことがない」というのはいつしか、私の中で一種のコンプレックスになっていた。


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自分的にフジロックへ行くべきタイミングがいくつかあったはずで、直近でいえば平沢進+会人が出演した2019年(もう出ません宣言をされてしまった)、そしてスロウダイヴが出演した昨年2023年。(この時インタビューが叶う予定だったが残念ながら実現できなかった、という苦い思い出をここで供養させてもらいたい)

そしてさらに欲張ると、ソニック・ユースが出演した2006年。当時は10代前半、三重の田舎暮らし。一人で新幹線に乗って僻地へ行くのはなかなかに難しい。仮に今当時に戻ることができたとしても多分行けないので、ただの欲張りな願望に過ぎない。


すべては自らの選択の上成り立っている人生ゆえ、あまり悔いを探したくはないが、ソニック・ユースを直に観ることができなかったのは悔しい。とてもとても悔しい。直に見た人や若い頃の活動をタイムリーに追ってきた人に話を聞くたび、心臓の周りの血管がぐにゃりと捻られている気持ちになる。人生におけるスタンプカードの一つが空いたままになってしまった。


そうして迎えた2024年3月。〈FUJI ROCK FESTIVAL '24〉第2弾出演アーティストにキム・ゴードンの名前を見つけた。ソニック・ユースをフジロックで観ることは叶わなかったけど、彼女をフジロックで観ることは今から叶えられるかもしれない。そんな気持ちがからだの奥の奥の方で沸きはじめた時に、知り合いが「いまこそフジロックに行くべきだよ」と言ってくれたのです。


「こんなホットな時期にキム・ゴードン観ないなんて、本当は好きじゃないんじゃないの?」

どこからそう言われているような気がした。実態を持たないフジロックの魔物が嘲笑ってる。キム・ゴードン、ソニック・ユース、いや音楽への心酔度を測られているのだ。そしてそれは誰かじゃなくて、自分が自分を測っていた。

そんな邪推なマインドこそ失礼極まりない。素直さが足りない。結局は、行きたければ行けばいいだけの話だ。


本来では例年通りハードルに屈する予定だったが、幸運なことに、今回はフジロックへ行ける環境が私にはあった。まずチケットが買えた。そして、新幹線の乗り方もわかるし、準備のために何かが必要だ、と言われたら悩みはしつつも買える分の手持ちはある。

すると不思議なことに、キムゴードンをフジロックで観てみたい。フジロックというのが、どういうものか知ってみたい。人生のスタンプカードを埋めたい。聖地を美化した夢物語とか仕事にまつわるプライドとかそういう建前とか邪念をどこかに忘れて、単なる興味でいっぱいになるわけです。

その結果、知人の言葉は後押しどころか、先陣を切って私のフジロックムーブを突き動かし、気がつけば現地へのチケットと道のりを確保するまでに。こればかりは運と周りのおかげです。感謝。


結局は「お金」という話でもあるなと、こっそり思ったりもしています。


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コンプレックスがどうだとか「好きなら現地に行け」だとか、本当はあまり関係ないし、そういうのに対して“絶対”や“強制”と思うことはないので、それぞれの生活や余裕に合わせて選ぶべきものだという考えには変わりないです。人が言えることは「好きにすれば?」しかないし、そこで留めたい。

ただ“引け目”というのは、結局何かを実行しないとなくならなくて、あわよくば一生ついてこようとするもので。自分が引け目に感じていることとかコンプレックスだと思うことがあれば、どうにかしてやるのがやっぱり最良の道なのだと思う。住んでいる場所や環境、仕事、人との関係、性格、口癖、あらゆるものが小さなコンプレックスとなり得て、からだの内側で相互作用してむくむくと膨れ上がっていくのである。

それを忘れるために、他の人への審査を厳しくして、怒りに注ぐことで、自分のコンプレックスを忘れたつもりになる。それが現代のSNSに顕著に現れているなぁと思っています。

そして自分が自分にネガティブな目線を持つということは、自分が相手に対して審査していることでもある。人のコンプレックスに敏感な人ほど、自分のコンプレックスにも敏感で、逆もまた然り。

そういうのを愛せるようになることが理想ではあるんですけど、なかなか難しいですよね。こればかりは人to人でしか変えられないと思う。


他人のコンプレックスはなんか可愛く見えたり愛せたりもするけど、自分のコンプレックスはなかなか愛せないし、認められないものだったりするから、尚更自分が自分にどうにかしてあげないと、終わりがないよなぁなんて思うのです。


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キム・ゴードンといえば、3月にリリースした 『The Collective』。ジャスティン・ライゼンが提供したビートにリリックやギターなどをキムが乗せて作り上げたというダブ/トラップなトラックに、サイレンや強烈なノイズを感覚的かつ知的に差し込む、朽ちない前衛アート性に胸震える一枚でしたが、ライブではバンド形式で披露しているようで、個人的にはそちらの方が好き。フジロックが楽しみです。 野外で楽しめるなんて素敵だなぁ。



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やいやい言って参りましたが、参加するのは3日目のみという。いやいや頑張れよって話。とりあえず帽子と水筒は新調しました。1日でもこれだけは死んでも忘れんじゃねえぞ、というものがあればこっそり教えてください。夢はすてたと言わないで。


2024.07.15








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