アフター自殺未遂 死のうって思ったけど私は幸せです
こんばんは、kanaです。
私はうつ病を患いながら、首都圏のどこかで一人暮らしをしています。
職場や友人等、沢山の人のおかげでつつましく過ごすことが出来ています。
コロナ禍で生活の一部に制限がある状況ですが、これでも自分らしく生きていけてるのではないかと思っています。そして、今があります。
ただ、ここまで暮らせるようになるのに決して順風満帆ではありませんでした。
これまで二度の「自殺未遂」を経験してきたから、今があります。
今、有名人でも自ら死を選ぶ人がちらほら目立ち、他人事ではない問題となってきています。また、コロナの影響で、自殺数が増えているなんてニュースも耳にします。
今回は「自殺未遂」をした後の体調面や周りの反応、どうやって幸せをつかみ取ったのかを、お話していこうと思います。
なんで自殺未遂に至ったのか、亡くなった方からは聞けない「生き残った心境」も赤裸々に描きます。
自殺未遂のその後
2度目の自殺未遂の後、半強制的に家を追い出されて、スーツケースを抱えて電車で2時間の実家へ強制送還されました。
散らかっっている部屋、母や弟との生活リズムの相違、実家暮らししていた子どもの頃のことを思い出し「大変なことをしてしまった」と、ようやく我に返ったのです。
周りからは「なんでそんなことするの!」と、怒鳴られる日々。
一方仕事に行くと「死にたいほど辛いことがあったんだね」と慰められる日々。家より職場の方が居心地がいいってどういうことよ。。
自殺未遂で失うものがある、それに気づけたのは未遂で終わった後でした。
二度の自殺未遂
先ほど、家を追い出された話をしましたが、これは「2度目」の自殺未遂のお話。
1度目は、Twitterで誹謗中傷に遭い、友人を誹謗中傷に巻き込んでしまったことが発端でした。「生きててもいいことない・・・」と思って首を吊って、そのまま精神科病院へ入院となりました。
退院後、当時の夫から別居を切り出されるものの頑なに拒否り、Twitterを退会してあらゆる縁を切って、細々と過ごしていました。
2度目は、死にたい気持ちが高まって、半ば衝動的に首を吊っていました。平成最後の4月下旬のことです。
その時の記憶はあまりありません。覚えているのは、当時アキレス腱を怪我して松葉杖生活だったこと、元夫に怒鳴られて家を追い出されたことです。
後がないというか、即離婚案件ですよね。
令和1年5月1日、令和になったと同時に離婚が決まり、その3週間後くらいに離婚届が受理されました。
人に見捨てられる
前述のとおり、元夫に怒鳴られ家を追い出され、母親からは小言のように「なんであんなことをしちゃったの」と言われました。
自殺未遂をするということは「家族に見捨てられる」ということを意味するパターンもあります。家族のみならず、友人、恋人など、大切な人ですね。
そのことがきっかけで、家族を失いました。
信頼されなくなる
実家があまりにも嫌で一人暮らしをしようとしていた時に「そんな金どこにあるの?」と、実家から逃げ出させないかのごとく説得をされました。
今、母の気持ちに立ってみると、また自殺未遂をするのではないか?と必死だったのかもしれません。
しかし、実家に居てしまっては私のメンタルが更に悪化してしまう、そう思って母を説得させ、家を出ました。
慰める人も少なからずいる
「そんなこともあるよね」
「慣れない松葉杖で生活してたんだから死にたくなるよ~」
と、励ましの言葉をかけてくださった人もいました。
また、離婚が決まった時に何年振りか分からないくらい会ってない友人が連絡をくれて、ご飯をご馳走になり、「これから貴方はこうして行かないとねー・・・」と、客観的なアドバイスを飲みながらしてくれました。
二度目の一人暮らし
離婚し、家族という存在を失い、毒親の元へ引き返され、半ば強引に一人暮らしを始めた私。
もしこのまま前職で勤務してたらを考えた際の年収は150万(2019年の源泉徴収票から現職の増えた分の給料・賞与を引いた額)、社会保険に加入してなかったのでそこから保険関係が引かれる。
離婚前から準備をしていた障害年金も、社労士さんに事情を話して、申立書に離婚の件を追記していただいてから提出。
実際に一人暮らしを初めて、やはり生活がキツいことに気が付く。元夫と作ったカードローンの120万の一部も返済途中だし。更に、申請した障害年金の支給決定まで数か月はかかる。
家賃を抑えるために借りた物件はキッチン含め6畳。バスとトイレは勿論一緒。築年数=私の年齢。
元夫に「環境のせいにするな」「住環境ってそんなに重要か?」と散々言われてきました。同業他社の新築分譲マンションからボロアパートへと住環境は大変化。
そこで気付きました。
「精神的に自立できてなかったんだな」って。
これまでの生活は、食費や日用品費を少し入れるだけで生活してきており、元夫の収入を当てにしすぎていた部分もありました。だからこそ、自立することの大変さを身に染みていました。
転機となった、予期せぬ転職活動
ボロアパートでの生活も慣れてきたころ、当時在籍していた会社の部署に管理職就任し、障害者雇用はやりたくないと言われてしまい事実上の解雇となりました。
もし、仕事をクビになったってことが母にバレたら・・・?
そんな思いしか考えられませんでした。
急遽転職活動を開始し、1か月で今の会社に内定をいただき、その2か月後から入社することになりました。
この会社での出来事は上記記事にてお話しているので、本記事では省略します。
その会社で働くのに必死になっていたら、金銭的にも余裕が出てきて、120万のカードローンも完済に至りました。
ある歌との出会い
私は好きな歌手として、いきものがかりや水樹奈々さんの名を挙げています。
水樹奈々さんにハマったきっかけは単純で、ハマった時交際していた元彼が聴いていて、その中で良い曲が沢山あったからという単純なものでした。
元彼と別れて1か月後くらいのある時、「FNS音楽特別番組」と題して特番がやっていたので観ていました。その時水樹奈々さんが出演されていました。
その時演奏した曲が「STAND UP!」。初めて聴く曲でした。
諦めない心を
高らかに突き上げて
泣いたり笑ったり
転んだりもあるけど
僕らは行くんだ
歌を聴いて涙を流していました。2回ほど出てくるこの歌詞がグッときて、これまでの自分と重ねていました。
私にとっての「諦めない」って、大きな環境の変化もなく「普通の生活」を送ることだなと。
この歌詞のとおり、つまんない顔ばっかりしているし、立ち止まったらそこで終わっちゃう。
逃げ出したい日があってもいい。一歩ずつ歩いていけばいいことが必ずやってくるよって。
なんだか今の自分へのメッセージな気がして、心に沁みました。
そして、水樹奈々さんがもっと好きになりました。
離婚から1年が経ったあの時
離婚から1年と言いますと、新型コロナが流行し、緊急事態宣言が出ていた時ですね。
自粛生活、在宅勤務、STAYHOMEを続けながら精神科の診察は通常通り行き続けていました。
コロナ禍での日常とか色々話したのち、主治医は
「大分安定してきましたね」
と、言ったのです。
気が付いたら、現職での勤務も半年が経ち、収入の一部を貯金できるにまで金銭面でも余裕が出来(単にコロナの外出自粛があったから・・?)、単身家庭という1つの団体を1人で回していました。
朝起きてご飯食べて、TV見たり音楽聴いたり勉強したりしてシャワーを浴びて寝る。
そんな「普通の生活」を、心穏やかに送れるまでになっていたのです。
ある一大決心をする
もっと今よりいい生活をしたい!と感じ、夏頃引っ越しを決意。
分譲マンションに住んでいた頃とはまだほど遠いですが、お風呂とトイレも別になってゆっくり浴槽に浸かることが出来たり、家賃もかなり上がったので毎日の仕事もモチベーションが上がっています。
毎日家計と相談して、赤字にならないように、ゲームのごとくまわしていく。
ようやく「自立」に近づいてきたんだな、と感じています。
まとめ
自殺未遂したその後の心境・どうやって立ち直っていったのか、を自伝のごとくつらつらと書きました。
今でも死にたい気持ちになることもあります。但し、大切な人のことを思い浮かべて、必死に耐えることを日々訓練したり、頓服薬に頼ったり身近な人に相談したりと、この1年半で適切な対処が出来てきたように思います。
自殺未遂をして失った人も沢山います。しかし、今ではその倍以上の数、頼れる人も増えたように思えます。
また、正常な判断により自殺が行われることより、精神障害を起因として自殺企図が生じることが圧倒的に多いようです。
あくまで私見ですが、自殺防止も勿論大事ですが、精神疾患の既往歴を調べて適切な場所をつなげることが大事なのかな、と思います。
私の自殺未遂後の生きざまが、何かのヒントになれば幸いです。
最後になりますが、ちょっとでも希死念慮が出てきたとき、頼れる場所に電話で助けを求めるのも1つの方法です。
こころの健康相談統一ダイヤル
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/seikatsuhogo/jisatsu/kokoro_dial.html