【小説】流涕
「ごめ……わた、し……無理、か、も」
限界を感じて蹲るわたし。チームメイトの叫ぶ声が遠く聞こえてきたが、とてもそれに応える力は残っていなかった。
中学一年生の春、部活見学期間の真っ只中。興味本位で覗きに行った剣道部に心を惹かれて、わたしは入部することにした。といってもわたしの運動音痴っぷりは周知のことだったため、小学校からの友達はみんな揃ってわたしが文化部だと思い込んでいたようで大層驚かれたものだ。
しかしその後、入る部活を間違えたかも、と気づいたのはそれから二ヶ月も経たない頃だ。顧問により、先輩達が次々と床に叩きつけられていくのを見たときは肝が冷えた(武道の世界では珍しいことではないらしいから余計怖い)。わたしは剣道というものを少し誤解していたのだ。もっとこう格好よく、美しい所作で行うものだと思っていたのが間違いだった。バトル漫画の読み過ぎだったのかもしれない。自分で言うのもなんだが、おっとりぽやぽやと甘やかされて暮らしてきたわたしがこの世界でやっていけるわけがない……と遠い目になったことを覚えている。
そんなわたしも二年生の春にもなれば、そこそこ勝てるまでに成長していた。というより、女子部員が少ないためレギュラーに入らざるを得ないような状況で、こってり絞られた結果人並みにはなったという表現が正しいが。
そこである日、わたしは願掛けに似た目標を立てた。
「引退までは絶対に泣かない」
何故か。理由は単純、強くなりたいから。いつだったか読んだ小説に出てきた、強い女は泣かないんだ、と奮起した王女に影響されての目標だった。これは部活のことに限らず、わたしはどんなに辛いときでも決して涙を流さないように徹底して過ごした。なあんだ、意外といけるもんなんだなというのがしばらく経った際の正直な感想だ。鋼の意志を手に入れたようで少し嬉しかった。
まさかそれが裏目に出るとは露も知らずに。
事が起きたのは三年生になって間もない春季大会だった。一年を通して春季大会だけは予選というものが存在せず、県内全ての中学校が出場する。一回戦からあまりの強豪校に当たらない限り勝ち残れるチャンスはあるが、出場校が多い分どこにダークホースが隠れているかわからないため、相手を観察する技量も求められる大会である。
一回戦でわたし達の相手となったのは、ある意味春季大会特有といえるチームだった。本来剣道の団体戦は五人で行うのだが、相手側のチームの構成人数が三人なのだ。その校区の競技人口が少ないと必然的にこういったことが起こり、その場合は五人のうち二番目と四番目の選手の試合が抜け、人数が多いほうの不戦勝となる。もっとも、わたしは先鋒、もう一人の同級生は大将を任されているため直接関係はないのだが、後輩達の負担が減ることに胸を撫で下ろした。
人数こそ足りないものの相手チームの実力は決して馬鹿にはできないものながら、流石に勝利は譲れない。無事に一回戦を切り抜けたわたし達は、次に向けてのミーティングに入った。
異変を感じたのはそのときだった。最初は、自分の呼吸が浅いな、と他人事のように思った。胸の辺りになにかがつっかえていて息が苦しいのだ。そして話し合いが一段落したところで、わたしは馬鹿正直にもそれを口に出してしまった。
「なんだか……息が苦しい」
言ってしまってからしまったと思ったがもう遅い。四人分の視線がこちらに向き、たった一人の同級生の目がみるみる釣り上がる。
「ちょっと、こうやって士気上げてる最中になんでそういうこと言うの?せっかく二回戦頑張ろうって話してたのに気持ち下げないでよ!!」
元々彼女は気が強い子で、責任感も強い。実力も伴った大将っぷりにわたしは普段から彼女を尊敬していたし、わたしなりに彼女を支える立場にいたつもりだ。だというのに、後輩達もいる前で情けないことを言ってしまった。
「ごめんなんでもない!大丈夫だか────」
「謝って済む問題じゃないでしょ!?」
慌てて表情を取り繕い平気そうな顔で謝ったが、その謝罪すら遮って怒号が飛んだ。後輩が心配そうにおろおろしているのが見えて、ああごめんねわたしが頼りないせいで、と心の中でもう一度謝る。大将の言う通り士気を下げてしまった。素直に謝罪して何か気の利いたことを言わないとと頭で理解はしていたが、さらに呼吸は浅く苦しくなってきて、胸につっかえたモノはずしりと重くなり喉を圧迫する。途端ぐしゃりと歪んだ視界に、驚いた表情を浮かべる大将の姿が映ったのを最後にわたしは思わずその場に座り込んだ。
それからは大騒ぎだった。わたしは苦しさに耐えきれずに泣きながら蹲り、後輩達は悲鳴みたいな声でわたしの名前を呼んで、大将はしばらく呆然と立ち尽くしていた。思えば彼女は確かに気が強いが感情的なところも目立ち、わたしよりよく笑いその分よく泣く子だったから、入部して以来初めて見たわたしの涙に驚いていたのかもしれない。
かなり人の目を集めながらも、役員席からやって来た顧問に連れられて体育館の隅に移動する。嗚咽を必死に抑えて胸が痛いと訴えると、ぶつけたのかと尋ねられるが心当たりはない。顧問がチームメイトにも同じことを聞くと、先程の先鋒戦の初っ端、相手との体当たりの際に相手の面がわたしの胸部分にぶつかっていたのではないかという可能性が浮上した。
それが本当だとして、特に珍しいことでもないし何よりそのときはこれほどまでに痛まなかったので、わたしは記憶になかったのだ。ただ、もしもこの痛みが物理的なものではなく、精神的なものだとすれば心当たりは大ありである。この一年間わたしは涙を流さなかったとはいえ、一度も辛い思いをしなかったわけではない。部活中こっぴどく叱られたりだとかはしょっちゅう、部活以外でのプライベートでも、クラス内の人間関係のもつれや勉学の不調、失恋……わたしは涙を流さなかったのではなく、所詮「我慢していた」だけだったのだ。
一年間わたしの中で積もり積もってどす黒く染まった、この感情は何だろう。もはや悲しみなのか怒りなのか、悔しさなのかさえわからない何かが、両目から溢れて溢れて止まらない。流石にしばらく経つと嘔吐くことはなくなったものの、自分の意思とは関係なく涙は流れ続ける。人間って長い間泣かないとこんな風になるんだなあ、とぼんやり考えた。大将に背中をさすってもらいながら、わたしはきっと抜け殻のような表情をしているだろう。何しろ、引退までの願掛けがたった今あっけなく壊れてしまったのだから。
顧問に呼ばれて顔を上げると、次の試合出れそうか、とのことだった。どうやら二回戦はもう五分後くらいに迫っているようだ。気持ちの面でも身体の面でも、正直、出たくない……というよりチームのことを考えると出ないほうが得策だろう。けれど、と右前方に視線を向ける。そこからちらちらとこちらを伺っているのは次の対戦校だ。先程と違い、あの学校とは何度か試合をしたことがあるため、大体の実力は把握している。何よりあちらのチームは全員三年生だ。試合では技術はもちろん、経験値もものを言う。逆に三年生が少ないこちらと対戦することを考え、さらにわたしが抜けるともなると、後輩達の負担は増す一方だ。わたしが抜けた際の保険だろう、防具を携えた補欠の子が不安そうな顔でわたしを見つめている。
どうする。未だ溢れる涙ごと目を閉じると、わたしの中で様々な思いが駆け巡った。そして、────
「……いけます」
立てた誓いは破ってしまったが、今ここで矜持を捨てるほど、わたしは弱くないから。
「正面に、礼!相互に、礼!」
「お願いします!!」
胸の痛みはまだとれず、面を着けるのにかなり苦戦したものの、こうして整列することができた。このとき先鋒と次鋒は既に面を着けているため、相手の表情までは確認できない。
ようお前、さっきわたしが泣いてるところを見たよな?でも油断するなよ、舐めてると噛み付くぞ。視線だけでそう宣戦布告し、一礼の後メンバーで拳を軽くぶつけ合う。副将と中堅が下がり、次鋒は待機のため試合場の隅に移動する。最後に大将が力強く背中を叩いてもらい彼女も下がると、残されたのはわたしだけだ。
「先鋒、入りなさい」
審判に促され、白線の内に少し踏み入れ、小さく頭を下げる。ここで絶対に目線は下に向けないのがわたしの流儀だ。竹刀を携えた左腕を腰に、そこから一、二、三歩目で右手を伸ばして上向きに引き抜き左手で柄を固定、構えながら蹲踞。す、と小さく息を吸ったところで、
「始めぇ!!」
ブレが生じないように一瞬で立ち上がり、互いに声を上げる。焦ってここですぐ打っては駄目だ。相手にそれなりに経験があれば、余裕で避けられて逆に打たれてしまう。足を動かし、剣先で探り合いながら数秒、相手の手元が僅かに動いた。何か来る。自分から動いたということは先にわたしに打たせようとしているか、メン勝負に持ち込もうとしているか。幸いにもわたしは今は胸が痛いせいであまり腕が上がらないから、ドウは抜かれないだろう。多少ぎこちなくなるかもしれないがメンでいこう。繰り出したのはほぼ同時、所謂相メンが弾けて、竹刀を立てた鍔迫り合いになる。今の一撃だけで胸の中心がみしりと悲鳴をあげ、引っ込みつつあった涙がまた滲んできた。視界が悪いったらないし声を張っても格好悪いことに泣き声かどうか判別がつかないようなものだ。牽制しつつ足を引いて元の間合いに戻り、何度か打ち合う。……痛い。胸の不快感に加えて、単なる息切れも増してきていて息が続かない。口を開く度喉がひゅうと鳴って呼吸の邪魔をする。わたしは、ギィアアアアォ、といつものように恐竜のごとく吠え、猛攻を仕掛けた。めちゃめちゃにメンを打っては引き技で距離を取り、相手が動こうものならすかさず出ゴテで初動ごと消す。余裕があればコテメンと手当り次第打ち込んでみるが、どれも一本にはならない。やはり泣き喚きながらめちゃめちゃに打つのでは決定打にはならないか。
顧問からはわたしの疲弊を考慮して、無理に勝とうと思わなくていい、引き分けなら上等だと言われているが、それならそれでいい試合がしたい。今のままでは、駄目だ。選手に残り時間はわからないが、体感的にあともう一分を切っているだろう。一度体勢を立て直すため、本来の間合いまで戻ってしっかり構え直し、息を吐く。
相変わらず視界は最悪、息は切れて身体はあちこち痛みを訴えボロボロだ。でもやけに、心はすっきりしてきていた。一度涙を流したことで、気持ちの空き容量ができたのかもしれなかった。
そうか。「涙を流さない」ことだけが強さじゃないんだ。自分の気持ちに素直に、笑いたいとこは笑って泣きたいときは泣く。そうやって生きることが、本当の────
確信したわたしは強かった。ダンッ!と一回、手元を浮かせるためのフェイント。突然のことに慌てて対応しようとしたところを、すかさずメン、だ。
「メンあり!」
小気味よくわたし側の旗がばさっと上がるのと同時、チームのみんながいるほうからも拍手が巻き起こる。相メンが際どいなら、完全にこちらの独壇場となるメンの機会を作ればいい。一年前から温めてきたわたしの得意技だ。
自然と口の端が上がるのを自覚しながら開始線まで戻る。再び構え直し、剣先の延長線は相手の喉元へ。わたしは十分、尽くしたつもりだ。よくやったと思う。後少し。後少し、持ち堪えれば……
「二本目!」
「やめ!勝負あり!!」
涙は、いつの間にか止まっていた。
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