見出し画像

怒りのキャッチボールは終わったんだって。

今日はカウンセリングの日だったのだが、セラピストがコロナウイルスの濃厚接触者と言うことでお休みだった。
話したいことが山のようにあったけれど、心療内科医が時間を作ってくれて、話すことが出来た。

医師は「もう、どうやったって怒りをぶつけるところのない苦しみ。今までは壁であれど、ボールを投げたら返ってきたけれど、もうただボールは飛んでいくだけなんだろうな。生きていれば、わずかでも可能性があったんだから」と言った。

私はそう思っている。今までは、怒りをぶつける人間が生きていた。
法的にだが怒りをぶつけることが出来た。
けれども、死という飛び道具でこの世のどこからも姿を消してしまうということは、私の中で「受け入れなければ」と思っているけれど「受け入れられない」というところに行きつく。

生きていれば、どちらにとっても可能性はあったのだろうと思う。
以前にも書いたけれど、悪い意味で一番近しい存在同士だったということは、否めない。
私にとっては、後遺症を残され女性という尊厳を奪われ、家族関係も一時悪くなった。加害者にとっては長い時間塀の中で暮らし、不条理なことも自分が招いたことと言え、たくさんあった。私は加害者を恨み、加害者は私を恨むというような関係性だったかもしれない。

医師は「自殺する人が1つの理由で死ぬということはない、色々なことが絡まったうえに、自殺するときには何が何だかわかっていないことが多い」と言っていた。その言葉を聞くと、加害者は私を恨んでいたとは思うけれど刑務所での生活、出所後の暮らし、理想と現実の違いなどが一遍に襲ってきて、そこの苦痛から逃れるには「努力」と「死」を秤にかけたとき、死が上回ったということなのだろうと思う。

「何をどうやったところで、加害者が死んだところで生きていたところで、あなたの10年は帰ってこないし、被害が無くなるわけじゃない。
死刑になったって、死んだ人は帰ってこないでもどかしさばかりが残ってしまう。」
その言葉はいつも私が思っていることで、私が加害者を殺してやりたいと思っても実行しなかったのは、何も変わらないどころか負の憎しみは巡ってしまうとよくわかっていたからだ。

何も変わらない上に、死んでしまったことで私の怒りというものは以前より増幅しているように感じる。
私が手を下したわけでもなく、加害者本人が選んだことだけれども
怒りの持っていく先というものが、結局のところ消え去ってしまって、誰にもぶつけられないのだ。

今日、「加害者の両親は、公判で出所後は父親(A市在住)が一緒に住んで、更生の手助けをすると言っていたけれど、検察庁からの通知では、母親(B市)が帰住先で、死亡による除票の住民票もB市にあった。公判で言ったことが全部嘘なうえに、更生どころか死を防ぐこともできなかったということは罪深い」と言った。

散々、息子可愛さで情状証人で出廷した父親は検察官の言葉に言葉をかぶせ、半ば逆ギレの様に言った様子。それでいて、私が民事裁判を起こしたら、それに対して信じられないほどの罵詈雑言を言ったり、秘匿申請のため
名前も住所も教えていなかったが、色々な機関から私の名前を聞き出そうとするなど散々な対応をされてきた。
今頃、私という人間を恨んで恨んで恨んでいるに違いない。

私の好きな言葉で「人は願うものがある限り、果てしない」という言葉だ。
だからこそ、私は願いそこにたどり着けるように努力をしてきたと思う。
けれども、加害者の死によって「すべてが無駄」という状態になってしまった。
仮に、病気などの抗えない死であれば私は致し方がないことだと思えたかもしれない。けれども、絶望する、自殺してしまいたいと思うのは私の方で、自分自身で自分を殺めてしまいそうなことは何度もあった。

けれども、守って生きていかなければいけないから私は、死を選ばなかった。加害者には守るものや見ていたいものは、果たしてなかったのだろうかととても考える。
10年会っていない子どもであっても、父であり子である。
遠くからでも、会わなかったとしても出来ることだってあったのではないかと思う。

以前、医師に「私は、死ぬまで加害者を法的においかけ続けてやろうって決めている」と話したことがあった。
負のエナジーであっても、動けるということは幸せなことなのだ。
それすらが途絶えた今、自分を納得させるために色々なことを思ったり、考えたりする。そうするたびに、心の中の何かが壊れるというか、なんなんだろう。どうして、こんなに被害を増やすんだろうという気持ちになってしまう。

この気持ちというものを共有できる人もいないし、加害者の死というものが
肉親の死の様に「そういえば、こんなこともあったな」というような、薄れていくものではない。加害者とは事件発生時と公判での質問の際しか関りがない。ゆえに、思い出というものもなければ合理的に日にち薬が働くようなものではないと思っている。

医師がぼそっと「なんで、私だったんだって思うよね。1分違えばとかって」と言った。
私は、そう思わないように思わないようにと自分に言い聞かせてきていただけで、本心では「なんで私だったんだ」と思っている。
以前の記事で「私でよかったんだ、これで被害はなくなる」と言うことと、被害届を出せていない7人の女性の分まで、戦わなければいけないと思っているし、今でも「どこかで、その日の体験に苛まれている」人がいると思うと、こうやって加害者が死んだということで情緒の揺らぎを感じられるだけまだ、よかったのかもしれない。けれども、「なんで私だった」という気持ちがないというと、嘘になる。

この事件に遭ってから、失ったものというものは数えきれないことで
人としての優しさであるとか、未来への明るい展望とかを考えるなんて言う余裕は本当になくなったと思う。
腰の痛み止めを貼ったり、飲んだりするたびに「あの事件が全部の元凶」という気持ちになってしまうし、毎日、加害者と邂逅するのである。
死んだ今でも毎日、邂逅するのである。
「ああ、無力だな。受け入れることも手放すこともできない自分って」と思うばかりだ。

医師が「仮に、遺書が残っていたとしても本当のことなんて書いてあるとは思わない。本当のことの一部が書いてあるだけで、それが全てではない」
との言葉は、私をすごく打った。
私が「私は、加害者の死を知った時に「死亡」という文字の意味を認識するには時間が掛かりました。市役所の人が「亡くなっていますね」と言っても、私はそのたった1行「令和〇年〇月〇日死亡 令和〇年〇月〇日通知」という言葉を何十行にも感じ、特に実感が湧くような情緒的な関わりもないからこそ、いまだに受け入れるに至らない」と話した。

「私は、被害者であるけれど少しだけ、加害者の死がせめて最期に見た風景、思ったことが色はなくとも良いものだったらと思いました」と零した。

医師は「人の生き死にとか、責任とかって宇宙を誰が操っているのかって、操っていないけれど、何かの所為とか理由がないと落ち着かないんだよね」
と。私は、何事も真実が知りたいから物事に向き合ってきたんだと思っていたけれど、実は責任の所在や責任の大元を探していただけなのかもしれないと。

責任というものは、加害者自身の行動でしかない。
けれども、加害者がなぜそのような犯行を行ってしまい、なぜ私をターゲットにして、あの言葉を言ったのか1つ1つに答えが欲しくてたまらなかった。現実的に生きているからこそ、自分と全く違う気質の会ったこともない人間だからこそ、知りたかったのかもしれない。

今、知ることも怒りをぶつけることも、法的に何かをすることもできないという。「空」というものが、私の心の中で打った鐘が残響を残す空しさだけが朝も夜もずっと続いている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?