見出し画像

だったら、誰が悪いんだって話。

今日はカウンセリングだった、行きたい気持ちはなくとも休まないで行くことを目標にしている。生育歴の中の虐待体験を2週ほど話した。
私にとって、その虐待体験を語ることは、幼い私を今の私が助けられないのに立ち尽くしてみているような奇妙で極めて居心地の悪いもので、続けられないといった。
セラピストから「〇〇さんは、きっとこの2週間怒りを持ったと思いますが、それはどういった形で処理されましたか」と問われた。
まず、私は滅多に怒りの感情や喜怒哀楽を表すことが無くなった。
事件後から。
重ねに重ねた怒りをさも、社会規範的に「よくやった」といわれるような方法で処理してきたと思う、明らかに社会的に許されないことをした人に対してその人だけに抱いている怒りの感情だけではない様々なものをぐちゃぐちゃに合わせて、法に則って正しい制裁をしているというものだ。
その怒りがしっかりと行政により果たされた瞬間、何でもよくなってしまう。
人に喜怒哀楽を仕事でもない中で見せることは、隙を見せてしまうことになるようなきがしてならない。
最近、家族にはまだ見せられても、友人には見せられない。
今の私は、過去の幸福だった時をなんとしても手に入れなおしたい。
そう強く願っている、そのためだったらどんな手を使ったっていいと思った。
けれど、その前にやらなければいけないことがある。
人が生きている限り、犯罪は生まれてしまう。
犯罪は個人間で起きる戦争で、一瞬にしてすべてを無にするだけの破壊力があり、立て直すことは簡単ではない。
加害者の更生や出所後の定住地などに国は予算を割くが、被害者に割いた予算はたったの8億数千万にしか過ぎない。
それでどうやって、立ち直って生きていけばいいというのか。
相談窓口に行けば、何度も同じ話をさせられる。
中には、ひどい態度をとる人だっている。
簡単に成立する法案もあれば、こうやって過去の被害の日に立ちすくむ被害者をそのまま立たせている政治というものが存在する。
歩いていただけで、命が失われるような経験をした人間がどうやって立ち直り、再び社会という集団の中で何の気兼ねもなく生きていけるのか。
損害賠償請求権を持っていても、そもそも犯罪を犯す人間は無資力であったり知的境界域にあることが多い。その人間に、1千万以上もの支払い命令が出ても、払えないならば、訴訟提起をした弁護士費用や印紙代だけが無駄になり時効が近づけば、また着手金を払って裁判をする。その繰り返しでしかない。
そんなこと、政治家ならわかるでしょう。
社会的マイノリティは隅っこで泣いていろということか、それとも立ち直れないのはすべて自己責任なのか。
その根底を覆すには、結束するということしかない。
過去に、明日の会が犯罪被害者等基本法の成立を勝ち取ったように、犯罪被害者となった私たちが立ち上がることで、未来の被害者の負担は確実に減っていく。もしも、あの時に犯罪被害者等基本法が成立していなかったら、確実に被害者は公判に参加することも求刑に対する意見や心情陳述の機会は与えられなかったのだ。誰だって、被害者になるかもしれない。
だからこそ、他人事だと思わないでほしい。
明日かもしれない、あなたが被害者になるのは。
来月かもしれない、あなたの大切な誰かが被害者になってしまうのは。
その苦しみから守ることが出来るならば、痛い思いをしたことを悲しく、
優しさを失ったこともアドバンテージにしてたくさんのものを取り返せるかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?