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マザー・テラサワ時事放談⑥「お笑いライブ会場の抱える病と希望に関する考察」『暇』2023年7月号


1年365日お笑いライブは様々な会場で実施されている。今回はそのライブの会場に注目し、会場設備という枠組が芸人自身の芸の幅、果ては芸の内実までをも規定し得るのではないかという観点から論じていきたい。
私事ではあるが、6月17日(土)に「マザー・テラサワ現代社会分析報告会2023年上半期」というイベントを実施した。名前からいかがわしい学会報告会と思われるが決してそうではない。これは半年に一度、私が実施するお笑いの「単独ライブ」である。ただ、芸風が哲学や社会科学という学術風を装っている点、プロジェクターとスライドを用いるという点からセミナーという色彩も正直強い。マージナルな形式のイベントと言えば聞こえは良い。しかし、現代の飽和化するお笑い産業と、学術を少しかじった己の来し方とを掛け算して導き出せるオリジナリティとは何かを打算した結果、こういう形式にたどり着いた。崇高な理念など無い。私にとってはこの形が独自の芸をとかく体現し易かった訳である。
この報告会、会場は中野サンプラザの研修室であった。会場費を安く抑えるために、公共施設の会議室やレンタルスペースをお笑いライブ会場として使うケースは多々ある。しかし自身のプロモーションとなる単独公演の会場にあえてセミナールームを選ぶ芸人はなかなかいないと思われる。しかも私の場合はこれが初めてではない。振り返ると単独イベントの大半はセミナールームで行って来た。
話が変わるが、ここで近代お笑いの創生期に関する愚見を述べる。
あらゆるジャンルに言えることだが、何かの表現の形式や内実ついて考察する際、その表現者の置かれる社会条件を無視することは出来ない。東京・浅草や大阪・難波千日前などは初期近代の日本において貧困層が集中する地域であった。芸能というジャンルは「河原者」のように、得てして持たざる階層から発展してきた。能や浄瑠璃・歌舞伎といった確立し権威化が進んだジャンルとは異なる「お笑い」、そんな手頃に新規参入可能な大衆演芸が、そうした人間の階層で発展するのは必然的だったのかもしれない。時代は下り、浅草は東京お笑いの聖地と言われ、難波千日前は吉本興業の聖堂「なんばグランド花月」が存在している。
今日本のお笑い芸人で圧倒的に競技人口(賞レース至上主義の世相を皮肉る意味も込めてこう言う)が多いのは漫才だ。興行主の目線で考えると、漫才はセンターマイク一本のみを舞台装置として据えるので圧倒的にコストパフォーマンスが良い。俗っぽく言うと金をかけずに披露出来る。それでいてボケ・ツッコミという掛け合いのテンポは心地よく、設定一つでマイク一本の舞台が海にも砂漠にも霊界にも変化し得る。漫才が秘める表現としての可能性の幅広さは、観るものは勿論、漫才を実践する芸人側をも虜にする。先人が築いた技術の蓄積、そして漫才ブームやM−1グランプリの隆盛を経て、漫才は今や現代日本のお笑いにおける、もっとも権威的に確立したジャンルとして君臨している。
既存の演芸に比して、経費の掛からない装置でエンタメを提供する必要に駆られた事から確立した漫才という形式が、今やお笑い界で成功するための所与の形式となっている。かつその形式が支配的なものであれば、そこから逸脱した形式の芸人は色眼鏡で見られてしまう。M−1グランプリ2022における「R−1はM−1に比して夢が無い」というウエストランドの発言はその象徴だ。
芸人をやっていて肌身で感じる事だが、お笑い界において道具に頼らず身一つで芸を披露することが美学として持てはやされる傾向は強い。その結果、お笑いライブもその美学を前提とするネタを軸として組み立てられ、ライブ会場も作りがシンプルなものとなっていく。そして適者生存の理論ではないが、芸人という生物は置かれた環境に適応したネタを創作する。お笑いライブの会場に見合い、そして出演するライブが要求する形式に見合ったネタを作るように自己をチューニングするのだ。もっとも、そうした形式に見合ったネタをするべきというルールは無い。日々の舞台の経験を踏まえ、場に見合った形式と内容の作品を生産するよう自己規律化していく。
加えて私が違和感を覚えることだが、養成所のネタ見せ、そして事務所ライブや番組のオーディションは、殺風景な稽古場や会議室で行われることが常だ。それは必然的に道具や装置の要らないネタを行う方向に芸人の思考を駆り立てる。誤解して欲しくないが、私はそういうシンプルなネタを全否定している訳では無い。新しい形式やテクノロジーを開拓する可能性を、そんなオーディションの場が黙殺しているのではないかと言いたいのだ。
お笑いにおけるテクノロジーの問題を鑑みると、2021年THE WでAマッソが披露したプロジェクションマッピングを用いたネタを想起する。THE Wは参加資格が女性、ネタのジャンルは問わない大会だ。彼女達はおよそ他の賞レースでは見られない映像技術を駆使したネタを展開した。が、舞台の決まりきった装置の範囲で披露される他のネタに比べると明らかに異質だった。そして「テクノロジー偏重のネタ」という判断を下した審査員も少なくなかった筈だ。作品の完成度は高かったものの、この年のAマッソは優勝には至らなかったのである。
Aマッソのプロジェクションマッピングネタを「単独ライブ向けのネタだ」と指摘した声も挙がったようだ。しかし今後お笑いが他の表現ジャンルと比較される事を見越すと、この手のネタを披露する環境を整え、テクノロジーを駆使したネタを実践する芸人が増えていくべきだと私は考える。現状踏まえると、そもそもプロジェクションマッピングでネタを作る技術的ノウハウがある人材は希少であるし、それを披露できる会場も乏しい。「使える技術設備が多用な時代に生まれているのに、なぜお笑いはシンプルな舞台装置に拘り続けるのか?」その問いに対して「今までのお笑い界がそうだったから」と答えるのはあまりにトートロジーで空疎ではないだろうか。事実、イノベーションを起こせず遺物となり果てた表現は、歴史を紐解くと様々散見されている。
最近、松本人志の「今後のお笑いはテレビから劇場に回帰する」という発言が注目された。テレビお笑いが飽和状態であることや、コンプライアンス的な問題を踏まえてのことらしい。私見だが、そうなるとお笑いを披露する場所の差別化はより顕著になり、「会場選定大喜利」が繰り広げられる状況が来るかもしれない。芸が魅力的に見せられるなら既存の劇場に拘る理由は無い。私がセミナールームを嗜好するように、草原や廃墟、スポーツ施設でライブが開催されても構わない筈だ。また「有吉の壁」のロケ現場のように、入場客が有吉弘行の立場になってアミューズメントパークの如くネタを楽しむ企画などが出来ても良い。リアル脱出ゲームなど、体験型のエンタメとして参考とするべきモデルは多い。形式が変化すれば恐らくネタの内実もイノベーションが図られるだろう。
読者がこのコラムに目を通している日も、東京都内では3分強制暗転のノルマライブが多数実施されている。その状況下でどう固定化した形式に反逆できるか、私なりに今後も模索を続けていきたい。


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