にぼしいわし優勝から考える、個的な場からの運動とまなざし(マザー・テラサワ)『暇』2025年1月号
『THE W 2024』でにぼしいわしが優勝した。暇誌においては伽説いわし氏がショートコラム連載を持たれており今更紹介するまでも無いだろう。以前、いわし氏著の『そのうち孵化するって』の刊行イベントが阿佐谷・ネオ書房で開催され、本人と対談する機会を得た。彼女の作品に対して私は「日常的経験と妄想、創作とリアリティの境界が曖昧にも関わらず、不思議と作品の情景が鮮明に浮かぶ。この特徴的な文体はハマると抜け出せない魅力がある」という感じの評論を伝えた記憶がある。
2024年は、作家アンドレ・ブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表してから100周年の節目となる。以降、解釈の余地無いほどに前衛的な表現作品が便宜的に「シュール」と呼ばれる事となった。ある部分でいわし氏の作品はシュルレアリスムと言えるのかもしれない。しかし難解さにとどまらず「何かよく分からないけれども面白く読める」という形で読み手を惹きつける文章表現の上手さがある点で、いわし氏の作品は他のシュールな作品群と一線を画すると思われる。それは、いわし氏の表現の基軸が「お笑い芸人」であるからだろう。当然の事だが、お笑いというジャンルは観客の笑いを取れるか否かが、そのネタの良し悪しを規定する絶対的な基準となる。観客のパイをどれだけ取るかというゲームになると、「大衆」の存在を意識せずにはいられない。大衆の意表を突きつつも大衆を突き放さない、その懊悩の狭間で揺らぐいわし氏の状況は本人の作風に多大な影響を与えているのではないか。
近年、お笑い芸人の文章表現能力が文学界から注目され、実際小説を上梓したり文学誌にエッセイ等を寄稿したりする芸人が散見される。かつて「頭が悪ければ吉本に入れ」と形容されていた芸人という職業は、先人の築いた芸能的功績や賞レースのシステム化によりその社会的立場を相当に高めている。また、業界内競争が熾烈化してネタの独自性・唯一性を各々の芸人が追求していった果てに、ネタのメカニズムは単純なものからより複雑に、即物的現象的なものから心象的なものへと移行した。そのプロセスを踏まえると、お笑いの表現が人間の生や精神と言った文学の領域に足を踏み込む事はある種必然的だと言えるであろう。文学的センスを体現したにぼしいわしが、「女芸人No.1決定戦」といういかにもTVショー的なマクラを掲げた大会で優勝したことは、お笑い表現と文学性とが最早不可分であることを公的に見せつけた意味で、歴史的なメルクマールになると私は考えている。
話は変わるが、「THE W」が女性芸人限定の賞レースなのに触れる時、想起することがある。漫才賞レースの「M−1グランプリ2024」のファイナリストが12月5日に発表されたが、その後、とあるXの投稿が反響を呼んだ。投稿主は「裏アカ」で件の投稿を行っているため実名はこの場では伏せる。が、この人物が現在はラジオパーソナリティとして番組を複数抱え、芸人として芸能事務所にも在籍するとのみ述べておこう。ファイナリストの漫才師全組が「男性」であることに触れた上での主張で、投稿内容は下記の通りだ(現在は削除されている)。
ファイナリストに女性が含まれていないことから、お笑い界の運営や観客の眼差しに内在するジェンダーギャップの大きさを憂いた内容だと私は理解した。日本では女性参政権が戦後に認められるなど、この社会で女性の社会進出を阻害する環境が放置されてきた歴史があるのは首肯せざるを得ない。ただでさえ芸人は法治国家にいながら社会保障の埒外にあり、立場的にも金銭的にも不安定な存在だ。加えて、女性であれば身体的に「出産」に対する判断も迫られる。その上でお笑いへのモチベーションを高く保てる女性芸人は相当に限られるだろう。事実それは芸人の男女比という絶対的な数値で現れている。ジェンダーギャップ絡みの話は、確かに改善すべき焦眉の問題であろう。
が、それでもなお私は先の投稿に猛烈な違和感を覚えざるを得なかった。とりわけ「運営や観客も含めた大きな構造や空気が遅い世界である」と断定した点である。投稿者の述べる「運営」や「観客」とは、単一的性質を帯びたものとして括られる存在なのだろうか?「運営」や「観客」にカテゴライズされている組織や人間にはそれぞれの価値観があり、それぞれの嗜好がある。例えば、女性芸人ウォッチャーを公言して憚らない馬鹿よ貴方は・新道竜巳氏は常人に及びもつかない熱量で女性芸人ライブを主催し、新聞紙面で女性芸人を紹介し続けている。また、この投稿についてとある知人に話を振ったところ、彼は幼少の頃に商店街の営業で観た女性講談師・神田紅の話を問わず語りにし始めた。曰く「幼子心ながら、紅さんの講談は格好良かったし抜群に面白かった。そしてここまで芸のある講談師がこんな小さな商店街の営業に来てくれる事に感動した」との事だ。そして、伽説いわし氏の文才を評価し、そのネタや作品を愛好・愛読する『暇』誌の編集者や読者がいる。
ジェンダーギャップを歯がゆく感じる件の投稿者の気持ちは分からなくは無い。しかし、そんな業界の中でも既に輝きを放つ芸を行って来た女性芸人は数多くいたし、現在でも数多く存在する。そしてその才能を裏方もしくは観客として個々の現場で支え続ける存在もいる。その事実を看過して運営や観客の構築する世界が「虚造」「遅い」と断定した事は、やはり早計であったと感じられる。「M−1」というメガイベントに話の的を絞って、それだけでは分析し尽くせない複雑な論点を孕んだお笑い界のジェンダーギャップ問題を論評する事自体が、巨視的で、権威主義的で、そして何よりも例の投稿者が忌避したい筈の男性主義的な態度だったのではないか、私はそう考えざるを得ない。
最後に、改めてにぼしいわしに話を転じたい。「女芸人大会の王者」という称号が今後当人達には付きまとう状況がくる。同時に、その肩書に依らない形で表現者としての才覚を発揮すれば、そのこと自体が自然とジェンダーギャップに対する強力なアンチテーゼになるだろう。そしてそれが出来る芸人だと個人的には確信している。大きな問題ほど、状況を変えることには時間が掛かるし変化が生じるのは個的な場からとなる。フリーペーパーから始まったささやかな定期刊行冊子の連載投稿者が一夜にして全国的な知名度を得たこと自体、奇跡だとしか言いようがない。しかし奇跡は時に起こる。そしてその人は長い時間をかけ、己の才能を信じて作品を創作し続けた人だった。そのチャンピオンの姿勢は、引き続き私も追いかけていきたい。