小山貢山・和楽器奏者の人生 『暇』2023年5月号
和楽器奏者の人生とはなにか。とりわけ津軽三味線は「異端者」の魂の音色を体現する音楽性を持つ。2010年代、津軽三味線現代曲楽譜集を刊行し「他人の曲を弾く」ことをタブーとしていた津軽三味線界に一石を投じた津軽三味線小山流・小山貢山氏に聞く第1回。(聞き手:杉本健太郎『暇』発行人)
「ポインタ」で挫折し大学を中退
——津軽三味線に最初にふれたきっかけは。
小山貢山 広島市立大学の情報科学部在学中にバレーボール部に入っていたんですけど、文化系のところも一つ入りたいと思って津軽三味線サークルに入ったんです。最初は友達と一緒に入ってみただけなんですけど。むしろ私のほうがはまってしまったんです。2000年頃ですね。時代性としてはそのちょっと後に吉田兄弟の大ブームが巻き起こり始める、そんな時代です。大学で教えてもらっていた先生は高橋竹山の竹山流だったんですけど。始めてから半年後ぐらいに広島の地元のお祭りかなにかのときに東急ハンズの前でストリートで初めてやって。もう最初からお金になったんですよね。その当時は広島では三味線が珍しかったので。本通というアーケード街で定期的にやりはじめて、なおかつ仕事も入ってくるような状態になっていって。その当時の演奏のギャラは地方ではわりと高くて、東京だとだいたい1回のギャラが3万円だったんですけど、広島だと学生でも5万円くれたりとか。
——情報科学部の学生でありながら三味線ですでに稼いでいた。
貢山 そうですね。大学は情報科学部だったんですけど、「ポインタ」っていう概念がわからなくなっちゃって挫折したこともあって。
——ポインタで挫折。C言語でいう「配列とポインタ」ですね。
貢山 三味線という「やりたいことが見つかった」時期だったとも言えますけど、現実としては身も蓋もなくて、単純に「ポインタ」がわからなかったんです。C言語の習得の序盤のほうでわからなくなってしまったので、もうそのまま大学は中退しました。それは「やりたいことが見つかったから」でもあるんですけど「ポインタで挫折した」というのが本当のところなんですよね。親はもちろん大学中退には反対しました。だけど反対されてもポインタがわからないんだからもう行きたくない。そうしたら親から「それなら音楽の基礎をちゃんと学んだらどうだ」って言われて、くらしき作陽音大短期大学部の箏曲コースに入るんです。音大って小さい頃から音楽をやってないと入れないようなイメージもあるんですけど、作陽音大はゆるくて。受験の1カ月ぐらい前に箏(そう=いわゆる琴)を始めてそれで入ったんです。今は小論文でも入れるみたいです。当時は大阪芸大の長唄三味線科か作陽音大の琴科かの2択があって、広島市立大学だったから隣のくらしき作陽音大にしたんです。今もなんだかんだで琴もちょこちょこっとは弾いています。琴はもうほとんど教えてはいないですけど、ちょっと演奏するぐらいの仕事はちらほらある感じです。教えるのは津軽三味線がほぼ100%です。外国人向けに琴を初歩だけ教えることはありますけど。
津軽三味線は最初は高橋竹山流で、松山でストリートをしていたら「プロになるんだったらただで教えてあげるよ」と堀尾由謡(ほりお・ゆうよう)先生から声をかけていただいて。津軽三味線には「叩き三味線」と「弾き三味線」があるじゃないですか。竹山流は弾き三味線です。堀尾先生は叩き三味線だったんですけど、当時50歳代ですね。堀尾先生からちょっと習っていたんです。今でも交流はあります。曲弾きは息子さんの堀尾泰磨(ほりお・やすま)さんに教えてもらったんです。堀尾由謡先生も30歳でそれまでの職業を捨てて内弟子に入った方です。息子さんも小さい頃に内弟子に入っているんですよね。
——やはり転換期があった。
貢山 私も高校は愛媛の愛光学園という進学校で友達は医者とか弁護士ばっかりなんですけど、あまり成績が良くなかったのもあってコンプレックスがあったんです。ストリートでやっていたらその高校からも呼ばれて演奏したりして、コンプレックスを克服できたというのもあるんですよね。
最初はもちろん趣味で始めたわけですけど、プロになろうと思ったきっかけは岡田修さんの「火の鳥」という曲を聞いたことだったんです。津軽三味線というと一般的なイメージでは民謡、じょんがら節とかじゃないですか。「火の鳥」は西洋音楽の理論に基づいて作られた津軽三味線の曲なんですよね。フュージョン系というか。いつかこれを弾きたいと思っていたんです。その10年後に私の手で楽譜を出版することになるのですが、今も得意曲でよく弾いています。
音大時代も大学の課題曲は一切やらずに「斜影」という現代曲をずっとやっていました。誰にも習わずに楽譜と音源だけでずっと弾いていて、それで卒業してしまった。好きなことしかやらない。課題曲は一切やらない。卒業演奏も「斜影」でやりました。学校の課題曲ではなかったんですけどね。
——徹底して好きなことしかやらなかった。
貢山 それから24歳の時に東京に出てきて。東京芸大の長唄三味線科を目指したんですけど、あまりの諳譜(あんぷ)のめんどうくささに挫折しました。実は私は18歳のときにも東京に出てきて浪人生をやってから広島の大学に行ってるんです。でも広島の大学は1年で行かなくなってしまいました。音大は短大だから2年ですね。その後は東京でくすぶっていました。ほんとに最近ですよ、ようやく食べられるようになったのは。
24歳のときに東京に出てきた頃は、mixiで見つけたうどん屋さんで投げ銭制で演奏したりとか、自分の家でやっている三味線教室の告知ホームページをひたすら作っていたんですよね。デザインはよくわからないのでテキストベースでしたけど自分で作っていたんです。更新頻度が高いし楽譜を無料で出していたので「津軽三味線教室」の検索ワードでけっこう上にきたんですよね。
「秋田荷方節」で最大流派・小山流に入門
貢山 家で津軽三味線の教室をやるかたわらあちこちのカルチャーセンターや音楽教室でもやっていたんですけど、月謝が6割ぐらい抜かれるんです。楽器もその音楽教室が売るから売っちゃいけないみたいな。でも陰で売ったりしてました。とはいえ月謝は抜かれますからね。そのうち家でやっている教室にもたくさん生徒さんが集まるようになったのでカルチャーセンター系は一切やめて家一本に絞ったんです。
新宿の自宅で津軽三味線教室を開くのは2005年からです。その当時は新宿の広報紙『レガス』とかで募集をかけていました。まあまあ人は来ていましたけど、それだけで生活するまでには至らずで。定期演奏はホームページ経由からきてましたね。お寿司屋さんでの定期演奏は毎週月曜日にやっていました。
津軽三味線最大流派の小山流に入ったのは2006年頃です。小山流は楽譜が充実していて作陽音大に通っていた頃から楽譜を取り寄せて弾いていたんですよ。「黒石よされ節」を弾きたいと思って取り寄せた『小山貢民謡集第3集』に「秋田荷方節(あきたにかたぶし)」という曲が入っていて。当時はカセットテープで聴いていたんですけど、すごくかっこよくてそれがきっかけで小山流に入門しようと思ったんです。当時、津軽三味線の楽譜を出版していたのは小山会だけでした。「津軽三味線は即興だから楽譜にはできない」とされていたんですけど、それを楽譜にしたのが小山会の宗家だったんですね。今の家元(小山貢)のお父さんです。
吉田兄弟が津軽三味線のイメージを変えた
貢山 そして2010年に『あなたも弾けるやさしい津軽三味線入門』というDVDを出版したんですけど、7000〜8000枚は売れた思います。その当時はまだYouTubeなんかもそんなに見られていなかった時代なので。
その2年後の2012年に吉田兄弟と上妻宏光(あがつま・ひろみつ)さんの曲を収録した業界初の楽譜集『津軽三味線教本オールインワン』を出版しました。これはいろいろと批判にさらされました。津軽三味線界には「他人の曲を弾かない」という不文律があるんです。「他人の『手』を弾かない」とも言います。その不文律に反しているということに加えて直接のお弟子さんたちから「自分は直接習ってるのに!」みたいな特権意識が出てきちゃったんですよ。別になにか権利があるわけでもないのに「勝手にやるな!」みたいに言ってくる人が出てくるわけですね。それでも楽譜集は第4集まで出しました。他の流派の人も使ってくれているみたいです。
吉田兄弟から直接話を聞いた人によると、吉田健一さんは「間違っちゃいないけど、なんか違うんだよな!」って言ってたらしいんですよね。「なんか違う」ってことは「間違ってる」ってことですからねえ。そのへんは言い方が優しいんですよね。たしかに弾いている通りには書いてないんですけど、それまでみんなが耳コピをして弾いていたものが事実上の楽譜になったということなんですよ。
——なるほど、楽譜集刊行以前もみんな自分で耳コピして弾いていたわけですからね。
貢山 耳コピして弾いている人はたくさんいましたし、手書きの楽譜をやりとりしたりもしていたんです。
——それをある種の「決定稿」として出版したことに感情的な反発が出たと。
貢山 「吉田兄弟に許可をとっているのか?」とか言ってくる人もいましたけど、JASRACの権利処理をして著作権料を払っていますからね。それから「吉田兄弟の名前を勝手に使うな!おまえはゴミだ!」と英語でメールがきたりとか。一方、吉田兄弟は吉田兄弟でYouTubeを見るといろいろと言われているんですよ。「こんな弾き方は嫌いだ!」とか。彼らのすごいところはそういうコメントをほったらかしにていちいち反論しないところなんですよね。
戦後の津軽三味線の歴史で言うと1970年代後半に高橋竹山ブームがあって、2000年に吉田兄弟ブームがありました。高橋竹山的な津軽三味線の「日本海の荒波」的なイメージを吉田兄弟は「津軽三味線はかっこいい」というイメージに一気に塗り替えたんです。
——若い人が三味線を持つことについてのイメージを根底から変えてしまったのが吉田兄弟だったと。ところで最近の活動の変化は。
貢山 私は教えるのがメインなんですけど演奏もちょくちょくやってます。最近は遠方の演奏が増えてきましたね。この間は下関に行ってきました。海外ではルーマニアにもいきました。弾く曲は楽譜集に沿って小山内薫さんの「覚醒」という曲もよく弾きます。小山内薫さんは吉田兄弟の健一さんがプロデュースしていた津軽三味線ユニット疾風(はやて)のメンバーの方です。「覚醒」は現代曲といわれるジャンルですけど、私は西洋音楽理論で作られた津軽三味線の曲を推しています。そこでオリジナル曲にこだわる人も多いんですけど、私は逆に津軽三味線の良さが伝わるんだったら他人の曲も弾く方針でやっています。オリジナル曲にこだわるのはできたばかりの音楽ジャンルはみなそうなんですよね。クラシックだって当初は「作曲家=演奏家」だったわけですから。
——ジャンルが成熟すると作曲と演奏の分離が起きる。
貢山 ただ、小山会は基本は民謡の流派なんです。津軽三味線というと津軽民謡ですね。津軽民謡の特殊性は唄い方を変化させること。歌詞が伸びたり縮んだりもする。よっぽどよく歌詞を知っておかないと伴奏ができないんですね。だから「平もの」といわれる一般民謡をやる人は「津軽もの」はやらない。津軽民謡をやる人は一般民謡もやります。ちょっと独特な存在なんですよね。
津軽三味線がブームになってから長唄の人なんかでも「じょんがら節弾いて!」とか言われるらしいんで、できる人が増えています。長唄の人は三味線自体は細棹で弾くんですけど。ちょこっと弾いてあげるぐらいのことはできるようになっています。
津軽三味線の太棹は値崩れしない
貢山 歴史的に言うと1960年代に三橋美智也らの第一次民謡ブームがあって、1970年代前半の民謡歌手の金沢明子が出てきた第二次民謡ブーム。1970年代後半が高橋竹山ブームで、2000年代が吉田兄弟ブームなんですけど、1970年代の民謡ブームのときに団塊世代を中心に三味線が出回りすぎていま大量に余っているんです。細棹だとほぼただ同然でヤフオクで手に入る。しかし、津軽三味線の太棹だけほぼ値段が落ちない。
——団塊世代の人口ボリュームが大きすぎたために今その歪みが表面化していると。
貢山 「民謡酒場」とかもカラオケの台頭とともに消えていきましたね。カラオケがなかった頃は民謡酒場が各地にありました。民謡酒場は東北の民謡が多いんですよね。上京した人が東北に多かったので。みんなカラオケみたいに民謡を楽しんでいたんです。それもカラオケの台頭で壊滅してしまいました。さらに今は団塊世代が高齢化して民謡も陰りが出ていますね。津軽三味線も靑森の大会なんかでは予選無しで先着順でみんな出れますからね。そう考えると競技人口も全国で10万人はいないんじゃないですかね。
ニューヨークで初めてバズった日
—海外での活動は。
貢山 私は昔からニューヨークに憧れがあって。ニューヨークに津軽三味線の先生はいないので私が年に2回ぐらい行っていた時期があるんですけど。西海岸には津軽三味線や和太鼓の先生は多いんです。東海岸は日本から遠いからあまり行ってなかったんですね。そのときに動画を撮ってもらったのが唯一バズってYouTubeで130万再生までいきました。
着物を着て歩いていたんですけど、着物って侍のイメージなんですね。武道をやってるんじゃないかと思われて麻薬中毒者みたいなあぶない人も近づいてはこなかったですねえ。「どこの道場で習ってるんだ?」って聞かれたこともあります。
うちの教室は外国人の生徒さんもよく来ます。英語のサイトを作っていて、けっこう来るんですね。「日本文化体験交流塾」というNPO法人の理事も12年ぐらいやってるんですけど、そこから紹介してもらって、文化体験として三味線とか琴の体験講座みたいなのをやってます。コロナ禍のこの数年は減りましたけど、最近は戻ってきましたね。
——コロナ禍のこの数年の変化は。
貢山 演奏だけで暮らしていた人はほぼ0になりました。私は教室がメインだったんですぐには減らなかったんですけど。むしろ巣ごもり需要でやりはじめる人もいたりして。でもそういう人はだいたい長く続かないんですけど。
日本国内の最近の動向としては、弘前で「津軽三味線世界大会」というのがあって2連覇しました。山田千里が創始した大会ですね。山田千里はイベンターとしても才覚を発揮した人で津軽三味線居酒屋も山田千里ですね。最初のころは山田千里さんのお弟子さんばっかりが優勝してたみたいですけど。いまは全国各地に大会があって南は九州・熊本、香川もやっています。倉敷、神戸、大阪、滋賀も盛んです。金沢、東京、青森県でも3カ所ぐらい。あとはみちのく大会。ほかの芸能に比べると津軽三味線は競技人口のわりに大会が多いんです。
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