【つの版】ウマと人類史:近代編30・戊辰戦争
ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。
将軍徳川家茂は1866年(慶応2年)7月に大坂城で薨去し、一橋慶喜が将軍代行として長州征討を続けますが、相次ぐ戦乱や災害で国内は混乱し、幕府の権威は大いに揺らぎます。薩摩藩ら西国雄藩はこれを好機として幕府を批判し、朝廷への影響力を取り返そうと結託します。
◆鳥羽◆
◆伏見◆
四侯会議
家茂が薨去した頃、薩摩藩は朝廷へ長州征伐反対の建白書を提出します。その内容は「寛大の詔を下して兵を解き、天下の公議を尽くして大いに政体を更新し、中興の功業を遂げられるべし」というもので、今こそ朝廷が幕府から政治の実権を取り戻すべきだとする意見でした。朝議は紛糾し、いったんは「芸州・石州の長兵を本国まで押し戻してから」という慶喜の意見を天皇が受け入れますが、小倉方面での敗戦もあって慶喜らは意見を翻し、8月20日に出兵中止、諸大名召集の詔勅が出されます。
しかし天皇は長州を嫌い続け、慶喜や松平容保の肩を持ち、薩摩派の公卿たちを処罰します。諸大名も動乱が続く中、幕府による統治体制を揺るがすのは問題として召集に応じませんでした。同年12月5日に慶喜は二条城において将軍宣下を受けますが、同25日(1867年1月30日)に天皇が天然痘により崩御します。諡号は孝明天皇。数え37歳で比較的壮健だったため後世には岩倉具視や伊藤博文らによる暗殺説も唱えられますが、お付きの医師らによる「御容態書」なる診断書がきちんと残っており、陰謀論に過ぎません。
慶応3年1月9日(1867年2月13日)、孝明天皇の皇子・祐宮睦仁親王が満14歳で践祚(皇位継承)します。これが明治天皇ですが、明治と改元するのは翌年で、まだ慶応の元号を用いています。新将軍・徳川慶喜は新たな天皇を権威の後ろ盾とし、外国の公使を引見して幕府が日本国の正統な政府であることを内外に喧伝しました。
これに対し、薩摩藩は長州藩の名誉回復と列侯会議による朝廷を中心とした政治体制への変革を求めます。薩摩藩主の父・島津久光は西郷隆盛・大久保利通・小松清廉らを派遣して前宇和島藩主の伊達宗城、前土佐藩主の山内容堂、前越前藩主の松平春嶽らを説得し、兵庫開港問題に対する朝廷からの召集に応じて5月までに上洛します。慶喜は久光らとの会合の末、兵庫開港と長州赦免の勅許を獲得し、「天下の公論」をもって朝廷を動かし幕府の上位に立とうとした四侯会議を抑え込みました。
大政奉還
薩摩藩・土佐藩の倒幕派はやむなく武力と密勅による倒幕を図って密約を結びますが、土佐の山内容堂らは慶喜に接近し、徳川家を存続させるべく「大政奉還」を行うべしと建白します。10月14日、慶喜はこれを受け入れて天皇に政権を返上し、翌日勅許により承認されます。24日には征夷大将軍の辞職願も提出されますが、朝廷は「将軍職は従来どおりとし、政務の処理は引き続き幕府に委ねる」と解答したため、徳川幕府は存続します。
日本の軍事力を握り政治の実務を数百年担ってきた幕府に対し、朝廷には政権を運営する能力も体制もないため、大政奉還されても実際こうするしかありません。薩摩藩らがこれに反対しても、勅命に逆らったとして逆賊になるだけです。ここに徳川幕府と朝廷はほぼ一体化し、公武合体は成ったのです。慶応3年12月7日(グレゴリオ暦1868年1月1日)にはロンドン覚書により兵庫開港が決定されており、これを慶喜が実行することで、国際的にも徳川幕府が日本の正統な政権として承認されます。慶喜はゆくゆくは政体を変革して英国風の議会政治を取り入れ、議長・元首になろうとしていました。
これに対し、大久保利通・岩倉具視らは倒幕のためにクーデターを計画します。慶応3年12月9日、彼らは薩摩・土佐・広島・尾張・福井の五藩の兵によって御所の門を封鎖させ、倒幕派の公卿らとともに天皇に迫って「王政復古の大号令」を出させ、慶喜らの官職辞任と領地の返納を天皇の名のもとに実行させようとしました。慶喜は「この会議は自分を外した少数派による不当なものであり、諸侯会議による賛同を得ていない」として拒絶します。
慶喜の方が正論でしたが、倒幕派は幕府を挑発するため「勤王の志士」を支援して各地で暴動や反乱、掠奪や暴行を行わせ、彼らを江戸の薩摩藩邸に匿いました。怒った幕臣らは庄内藩らに命じて12月25日に薩摩藩邸を襲撃させ、無法な薩摩を討伐すべしと噴き上がります。慶喜は挑発に乗るなとなだめますが抑えきれず、ついに慶応4年戊辰1月3日(1868年1月27日)に京都南部の鳥羽・伏見で武力衝突が勃発しました。戊辰戦争の開始です。
戊辰戦争
両軍の兵力は、幕府軍が1万5000に対し薩長ら倒幕軍は5000と遥かに劣勢で、武器の面でも幕府軍の方が勝っていました。しかし倒幕軍は天皇・朝廷という巨大な兵器を持っており、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命して錦旗・節刀・官印を授けました。いわゆる「錦の御旗」で、これに逆らう者は「朝敵」であるという印です。
かつて承久の乱においては後鳥羽上皇が味方の総大将にこれを授け、北条氏を討伐させたものの敗れていますから、「勝てば官軍」のコトワザの通り戦って勝てばなんとでもなります。しかし戦争に慣れていない幕臣や佐幕派諸侯の兵は浮足立ち、朝敵とされた慶喜も恐れをなしてしまいます。彼の実父は尊王攘夷派の首魁であった徳川斉昭ですから、ここで錦旗に弓を引けば勝ったとしても大義名分に悖ります。1月6日、彼は悩んだ末に大坂城を出て会津・桑名の藩主らとともに海路で江戸へ逃亡しました。
錦旗に弓を引いた挙げ句に逃げ去ってしまったのですから、もはや幕府側の負けも同然です。日和見していた諸藩は次々と幕府を見限り、倒幕軍改め新政府軍は錦旗を掲げて意気揚々と東へ進軍します。道中で佐幕派の抵抗はあったものの、おおむね諸藩は新政府軍に屈して迎え入れ、3月には江戸城が開城しました。会津藩主・松平容保らは本国へ戻って抵抗を続け、皇族の輪王寺宮を盟主とする奥羽越列藩同盟を結成して新政府軍を阻みましたが、最終的に滅ぼされます。慶応4年9月8日(1868年10月23日)、新政府は改元を行って「明治」とし、徳川幕府に代わって日本国の政権を握りました。
幕末から続いた日本のこの大変革を「明治維新」と呼びます。体制上では天皇に政治の大権が返還されたことになるため「王政復古」ですが、実質上の権力は薩摩・長州らによる新政府が獲得したのです。兵庫などの開港も実現し、日本は本格的に国際社会の荒海に漕ぎ出し始めます。
◆錦◆
◆旗◆
さて、近代史を追うのもここらで一区切りとしましょう。次回からは本題に戻り、ウマと人類の関わりについて掘り下げて行こうと思います。
【続く】
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