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【つの版】ウマと人類史EX18:武士淵源

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 日本列島にはウマの飼育に好適な火山性草原が豊富にあり、特に東国では多くの馬牧が作られました。さらに北方の奥羽/東北地方にも、倭国と蝦夷との交易や戦争などによりウマが導入されていきます。こうした状況の中から武士(武者、武家)が誕生して来ることになります。

黒ボク土の分布(赤)

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武士淵源

 日本史における武士ぶしとは、おおよそ「平安時代中期以後に発生した、弓馬の道(騎射武芸)を職能とする家(武家)に属する者」と定義されます。類義語として武人、武者(むしゃ)、兵(つわもの)、侍(さむらい)などがありますが、各々は必ずしも一致しません。なぜ平安時代中期以後に、そのような家が出現したのでしょうか。

 武士の字句はチャイナから伝来したもので、前漢の『韓詩外伝』に「君子は三端を避く。文士の筆端、武士の鋒端、弁士の舌端」とあります。士とはチャイナにおいて庶民に対する支配階級をいい、のち王侯・公卿・大夫の下に属する下級貴族(士族)を指す語となりました。

 倭国には古くから戦士がおり、物部氏や大伴氏など有力な軍事氏族が存在しました。彼らは鉄板を連ねた甲冑を身に纏い、4世紀後半以後はウマに乗って戦っています。ワカタケル大王(倭王武/雄略天皇)のように自ら騎射を行って敵を倒した倭王もいました。物部(もののべ)とは兵器(つわもの)を司る氏族で「もののふ」の語源になったともされます。律令体制では官吏は文官と武官に分類され、武官は兵部省に所属する軍人として軍事や護衛を担当し、軍団兵や衛士、防人らを統率しました。彼らは「もののふ」「つわもの」とも呼ばれましたが、いわゆる武士ではありません。

 律令制下において、国造ら古来の地方豪族は郡司(ぐんじ/こおりのつかさ)として温存され、氏族制に基づく終身世襲の地方行政官として郡を支配していました。中央から派遣される国司は数年で交替しますが、郡司は在地首長として徴税権や軽裁判権などを握っていたのです。彼らは集めた税を国に納める代わりに国から田地(職田)を授かり、自衛や運送のためウマを飼育して子弟を鍛錬し、武力を保有していました。郡司の子弟らは健児(こんでい)と呼ばれる精鋭騎兵となり、国府などの守備にあたっています。

 延暦11年(792年)、桓武天皇は経費削減のため陸奥・出羽・佐渡・西海道(九州)を除く地域での軍団を廃止し、庶民の兵役を免除しました。代わって諸国内で弓馬(騎射)に優れた者を選抜する「健児の制」が発布され、彼らが治安維持を行いました。健児になるにはウマを養い武芸を鍛錬する時間と経済力が必要であるため、郡司の子弟や新興の富豪(田堵)が対象となり、定員は国ごとに30-100人程度でした。健児には「一人で百人に当たり得る」武力が求められたといい、彼らが武家・武士の原型にあたるようです。

王朝国家

 軍団制度の解散は、国家が民を戸籍に登録し管理する中央集権体制(公地公民制)を崩壊させました。郡司や田堵は中小農民に対して稲を貸し付けて利子をとり(私出挙)、彼らの没落に乗じて土地を兼併し、農民を隷属させて私有農地(私営田)を広げ、ますます富を蓄えるようになります。さらに中央の院宮王臣家(皇族と有力貴族)や国司は地方豪族/開発領主の権益を認めることで私有地(荘園)を拡大し、あがりを懐に入れていきます。チャイナで後漢代に地方豪族が台頭したのと同じ現象ですね。

 彼ら地方豪族は自前の武力たる私兵団を有し、他の豪族らと土地の所有権を巡って抗争し、運送中の物資を互いに武力で襲撃し掠奪するなどの不法行為(群盗海賊)を行いました。内地に移配された俘囚(蝦夷の虜囚)もこれに加わり、あるいは待遇改善を求めて武装蜂起し、治安を悪化させます。朝廷や国司は群盗海賊や俘囚反乱を鎮圧し税収を確保しようとしますが、軍団を解散してしまった地域では、手持ちの武力は同じ地方豪族しかいません。

 そこで朝廷は国司の権限を強化し、律令に基づく「発兵勅符」や「追捕官符」を交付し、当該国内の兵(残った軍団兵・健児・人夫・俘囚)を動員させました。国司の役所(国衙)が各々軍隊を率いたことから、これを「国衙軍制」といいます。また地方豪族は再編され国衙に務める在庁官人となり、辺境や治安が悪いため国司が直接赴任しない(遙任)場合は、国司の代理人(目代)のもとで在庁官人が実際の行政等を執り行いました。

 また朝廷は税収を確保するため、もはや戸籍で把握できない農民にではなく土地自体に税をかけ、在地富豪層に田地の経営と納税を委任しました。当該田地は経営・徴税を担当する豪族のがつけられたことから「名田(みょうでん)/(みょう)」と呼ばれ、田経営を請けった者を「負名(ふみょう)」と呼びます。11世紀頃から負名は「名主(みょうしゅ)」と呼ばれ、土地の大小に応じて大名・小名と呼ばれたのです。

 このような国家体制を、歴史学では律令国家体制と区別して「王朝国家体制」といいます。この体制は10世紀初頭から300年近く続き、藤原氏の摂関政治や11世紀後半からの院政を支えましたが、武家・武士もこの体制の下において形成されていきます。

坂東平氏

 桓武天皇には多くの皇子がおり、その一人葛原親王(786-853年)は天長2年(825年)に子の高棟王(804-867年)・善棟王らを臣籍降下させることを許され、平朝臣(たいらのあそん)の姓を賜りました。すなわち桓武平氏です。高棟王らの弟に高見王がおり、平氏となることもなく無位無官のまま早世しましたが、高望王という子を遺しました。彼は寛平元年(889年)頃に平朝臣の姓を賜って平高望となり、昌泰元年(898年)に上総介(上総国は親王任国のため事実上の国司)に任じられました。

 当時の上総国は、貞観9年(867年)に「国検非違使(令制国単位の警察長官)」が置かれ、たびたび俘囚の反乱が起こる治安の悪い国でした。また赴任した国司(受領)やその代官らは任期満了後も現地にとどまり、在地豪族と結託して蓄財に励んでいたといいます。反乱が頻発するのはこうした悪政にもよったのでしょうが、高望も同じように振る舞います。彼は息子の国香良兼に常陸国の豪族であった源護(みなもとの・まもる)の娘を、良将には下総国の豪族・県犬養春枝(あがたいぬかいの・はるえ)の娘を娶らせ、上総のみならず常陸・下総にも勢力を広げました。

 延喜2年(902年)、平高望は大宰府に転勤となり、9年余り後に同地で没しました。しかし国香・良兼・良将ら高望の息子たちはそれぞれに土着して坂東に勢力を保ち、坂東平氏の祖となります。この良将の子が将門です。

◆侍◆

◆心◆

【続く】

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